辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#16 『ユタの歴史的研究』感想

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伊波普猷『ユタの歴史的研究』 青空文庫

これは伊波普猷という沖縄の民俗学者が書いた文章でして、作品というよりかは論文と言った方が相応しいと思います。ですから今回は感想というよりも、理解という面が強くなる。悪く言えば堅くなる。伊波普猷はその故郷への意識から、その姓である伊波を"IHA"ではなく"IFA"と発音されたく思っていたようです。それが現地での発音なのか。最近琉球史に少し興味がありまして、少し学んでいく内に琉球というのが歴史上どういう立場にあったのかというのが段々見えてきました。現代を生きる沖縄人(どう呼べば差し支え無いのか図りかねるので飽くまで敬意を孕ませてこう呼ばせて頂きたい。これには日本という国の支配を受けている状態の沖縄出身者が、古琉球へ抱いている帰属意識を尊重するという意図がある。)がどのように生き、どのような意識を持っているのかは私には全く分かりません。しかし私を含めた非沖縄出身者には沖縄、琉球の歴史を知る義務があるように思われる。何かのデモに参加するとか、そういう感情ではなく、今現在自国の一部となっており、且つ嘗ては別の国であった共同体、民族への意識は忘れてはならない。先日、私は沖縄、琉球の歴史が教科書から消えつつあるということを知った。これは非常によろしくない事態であり、現代の日本という国の成り立ちを正しく表記しないことになる。歴史そのものに取捨選択は無い(教科書に載せる内容の取捨選択は有るが)。ともかくも我々は知らねばなるまい。我々がここで学ばなければ琉球の過去は人々の意識に於いて、より細々としたものとなり、いずれは忘れ去られてしまう。それでは本題。

知っている人は多いと思いますが一応、ユタというのは沖縄にいる預言者、占い師的な立ち位置の人を指します。つまりこの文章では沖縄の占い師を、民俗学的にその成り立ちを紐解くという訳です。大体の流れは以下のようになっています。

  1. 琉球に於ける政教一致とユタの影響力
  2. 政教分離と近代化(為政者と神職との争い)
  3. 宗教の不必要性と将来への期待、結び

という感じですかね。雑に3つに分けましたが本気で頭使った訳でも何でもないので気にしないで下さい。あとこの3部構成を軸にこの後書いていく訳ではないので緩く頭に入れておく程度でいいと思います。気にしないでね。

まず冒頭段落、

ユタを中心として活動する沖縄の古い女は夫人問題で活動する新しい女より二千年も後れていると断言せざるを得ないのであります。

私は伊波氏が触りから沖縄に対して否定気味であるということに驚きと同時に好感を覚えました。この人は自分の属している共同体を他者よりも優れているとしていないのだ。しかしここまで言い切ってしまうのは痛快なところがある。良い。ここで大体の伊波氏の考えの方針が分かりましたね。中国の儒教に対する魯迅の態度と非常に似ています。

沖縄三山の区画形式は初代琉球尚巴志によって破壊されていたがその実質は三山の諸侯が首里に移された尚真の治世に行われたようです。しかしこの時点ではまだ宗教的、精神的には統一されていないんですね。宗教的な統一を見るのは諸侯と王家が血縁関係を結び、尚家の氏神であるところの聞得大君(キコエオオキミ)が崇拝対象の主流になってからであります。沖縄において政教一致は尚家が中央集権を進める際に用いた重要な道具であった訳です。この時同時に、男子は政治、女子は宗教に携わるという分業が生まれたのです。この分業が後の琉球に大きく関わってきます。しかし女子を宗教側に充てるというのは世界共通な様で、ローマ文化の及んでいない頃のゲルマン民族にも見られる傾向らしいです。これに関しては、自然などスケールの大きなものはしばしば人々に男らしさを感じさせるので、それに関わる職には女性を、ということになったのではないかと思います。これには何の根拠もありません。私の考えです。尚真の時代に行われた八重山征服事業には女性神職の力が大きく関わっていたと考えられていた様ですが、これに関しては古代ヨーロッパでも軍には常に自軍の安全と勝利を祈る女性が含まれていたということが分かっているのでここにも世界の共通性を見ることができる。琉球政教分離を妨げたものに、仏教の様に高僧や大学者がいなかった為に起こった民衆との近接化を挙げることができましょう。間を隔てるものが無いのです。これに続けて伊波氏はこう述べています。

沖縄の民俗的宗教は儒教仏教も知らなかったところの婦女子の手に委ねられたために、かえってその原型を保存するに都合が良かったのであります。

沖縄における女性が如何に近代化を遅らせたことか(歴史を否定するつもりはないので悪しからず)。しかもこの後にも氏は括弧付きで

沖縄の女子が古来学問をしなかったということは面白いところであります。

と記述している。自分の部屋で凄い笑いましたよこれ。

次に神職とユタについてです。神職というのは古くより神秘的能力を持っていると信じられていたのですが、時代が下ってくるとそうでない者も目立ってくる(遡った時代の信仰に言及はできないためこう言うしかない)。そういう名義ばかりの神職に代わって信託を宣伝する様になった連中がユタと呼ばれたのです。ここでおさらいします。古来からの神職の能力(?)衰退により能力(?)を持ったユタが台頭してきた、ということですね。騙されてはいけない。力があるユタが出てきたからメデタシではないのだ。この時点でも琉球王国の政治は超能力的な得体の知れないものに頼っている。政教分離が全く進んでいない。こんなんでは近代国家として成り立ちませんナ。この後は神職に代わってトキユタ(ユタと同義)が王朝に仕える時代になりますが、政教一致からは勿論抜け出せていない。

しかし沖縄の民俗的宗教を衰退させる出来事が2つ起こる。第一に島津氏の琉球入り、第二に国内に於ける儒教の隆盛です。先にも述べていますが、琉球において宗教とは全島統一に必要不可欠なものであったため、尚家が統一した後の必要性は自ずと薄れるということになります。しかも島津氏によって支配は受けたものの、尚家を介した支配であったため尚王家の地位はより確固たるものになったわけです。こうなってくると統一は既に為されている訳ですから更に宗教の必要性は薄れる。この宗教衰退ダブルパンチによって、ようやく琉球内にもお待ちかねの学問が来るんですが、ここでも学問を教えられたのは男子だけで、女子とは無関係でありました(伊波氏の発言が思い出されるな…)。よって女子には依然宗教的な空気が流れる。この中途半端なものが政教分離の記念すべき一歩目になります。その後、向象賢という敏腕政治家が現れ、政教分離に一層の力を注ぐが、宮中御夫人方の根強い信仰に頭を悩ませることになる。男子は祖先崇拝の宗教を記念祭的なものとすることができたが、女子は相変わらずこれを宗教的なものとして信じたために色々の迷信が生じて来て政治の妨害となった。

向象賢の敏腕をもってしても、この数百年の歴史ある迷信を打破することが出来なかったのであります。

と記述している。ユタは一時衰退を見せるも、半世紀後、再び息を吹き返す。向象賢以下の政治家達の敵は常にユタであったのだ。氏は、政教一致の行く末を「東汀随筆」の故事を用いて暗示している。

昔春秋の時※(埒のつくり+虎)国臣鬼神を崇信すること最も厚し、国家の政事決を鬼神にとらずと云ふことなし……※(埒のつくり+虎)国は君臣上下怠慢して専ら鬼神に任す…

こうは言っていても伊波氏は琉球から完全に宗教を取り上げるのではなく、宗教"思想"を吹き込むことで民衆を古い迷信から解放しようとしているのだ。この部分の伊波氏の考察には本当に感動しました。氏は、琉球における宗教の「存在の理由」を軽々しく見てはいけないことを知っている。唯物論者がその思考の過程で"認識"という段階を経て形而上学やがては唯心論にたどり着くことを知っている。その上で氏は新しい沖縄の門出を期待し、嘗て跋扈していた女性神職達の子孫である女子達が近代的な活動をするのを心待ちにしていたのだ。嘗て向象賢を始め様々な政治家を苦しめた沖縄の女性の強さを知っているからこそ、沖縄の女性教育が如何なる意義を持つかを知っているのだ。

最後に、私は沖縄出身ではないが、伊波普猷という1947年に亡くなった故人とその著作を通じて出会えたことへの2016年の感謝と敬意を以て、沖縄という土地の発展を密かに願い、私が心に留めておくことで少しでもその歴史を衰えさせまいと思う。

#15 『宇宙論入門』感想

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佐藤勝彦宇宙論入門』 岩波新書

自分は文系ですし余り理系分野に興味はないのですが今回は理系っぽい本を読みました。宇宙のことってブッ飛び過ぎてて寧ろ文系にも親しみやすいといった印象を受けてるのは僕だけにしても勘違いもいい所ですね。申し訳ございません。本当に天文学やってる人に失礼なので理解したとかは一切言うつもり無いですよ僕。そんなに自惚れてもいませんし実際何も理解してないですし。アインシュタイン方程式が何なのか、CP対称性の破れが何なのか、インフレーション宇宙内のゆらぎを均一にしているものが何なのか、名前だけ覚えて賢そうですけどさっぱり分かりませんでした。本当になんなんだ。電車の中で読んでたんですけど何というか、仮想粒子対とか言われても粒が2つ1組でクルクル回ってるのを想像することしかできない。全部そうでした。日本語読んでるはずなのに全く手が届かないのも悔しいものです。痛い話ですが自分は中学の時ブラックホールにハマっていたので少しだけ知識は持ってるんですよ。超新星爆発が起きる時にホーキング輻射が起きるんだけども、その発してる筈の中央部にのみx線が観測されない場合はブラックホールが形成されたと見て良い、みたいな。あと赤方偏移とか。

宇宙論の一つのテーマとして暗黒物質の解明があると思います。地球環境での物理法則が効かない環境っていうのも凄いと思いますけど。暗黒物質は多分、密度やゆらぎは持っているがどこまで膨らましても内部の密度は一定に保たれる物質なんですね。

自分は去年友人と東大の駒場祭に行ったんですが、梶田教授がノーベル物理学賞を受賞したタイミングで宇宙論に関する講演をやっていたので聞いたんです。本当に面白かったです。KAGAYAさんという天文関係を主としている(?)アニメーターが作った映像を見たんですが、本当に分かりやすかった。この時の話の中でKAGRAという天体観測機器が出てきたんですが、途中からKAGAYAなのかKAGRAなのかよく分からなくなったのを覚えています。アニメの中では座標平面みたいなもので重力波を表現していたんですが、本当に良かった。連星パルサーを観測する際の放射線灯台の光のような物になっているというのも見て感動した。宇宙について知りたいから物理やりたいと思ったんですが、周りの理系を見てるとそんな甘いものではなさそうなので辞めます。

まあ今回は感想とか特にあるような本ではないのでこの辺で。

#14 『美味礼賛』感想

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ブリア・サヴァラン『美味礼賛』 岩波文庫

どうも、メモの読みたい本を数えたら100冊になっていた辣油です。先日何か本を読もうと思って本棚を何となく見ていたんですね。したら自分でも忘れていたんですがどうやら神保町で結構本を買い込んでいたらしいんです。自分でもそんなに覚えてないような本が5冊ほど見つかったので得をした気分でした。その中の1冊が「美味礼賛」だったんですね。この「美味礼賛」という本、今まで読んできた本の中でもトップクラスの面白さを持っているという、それでいて学術書に部類されるだろうというのが凄いところです。学術書に近いような新書は何冊か読みましたが本当にどれも退屈なもんです。好奇心にワクワクしてられるのも最初の30ページだけですよ本当に。あとは惰性で読み進める他ない。そろそろ本題へ。

この本はフランス社交界及びそれに伴う美食文化が栄えていた18〜19世紀の法律家ブリア=サヴァランによるもので、この作者は当時(恐らくルネサンス期の影響)しばしば見られる所謂"万能人"の類の人でした。法律だけでなく化学や文学にも精通している彼が「学殖蘊蓄を傾けて」(岩波書店原文ママ)美食学というものを確立せんとして書いたのがこの本なのでしょう。もう確立しつつあったのかも知れないですけどね。自分は本を読むことにあまり意味を持たせたくない人なんですが、この本は読んでいて本当に意味があるとつくづく思わされました。普段自分達に身近な食材からこの当時の貴族層ならではの食材まであらゆる記述が見られます。読んでいく中で分かったんですけど、この時期の人達って本当によく食べるんですね。コース料理だから何皿も、酒も違うのを何杯も。酒は弱いものから強いものへ、というのは覚えたので近々試してみようと思います。この本全体として中々好感が持てたのは、美食の幅を身分というものに余り制限させていない点です。所々限りはしていますがそれは食べるものが違う為仕方ないことです。自分は「文化」という観点から徒然草が好きなのですが、アレとは大違いですよ。成立年代も500年ほど離れていますし身分の上下によるお互いの認識も違うのは分かりますが、にしても徒然草は中々嫌味なことを言いますからね。

話を戻します。この「美味礼賛」の中で著者のブリア=サヴァランがチーズフォンデュを振る舞うというのがあるんですが、現代にこの著者の名を持ったチーズがあるんですね。

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この写真のものらしいんですが、ただ名前が付けられているだけなのか、実際に作成に加わったのかは知りません。作成に加わっていたのなら是非食べてみたい。

話を変えます。自分は夜寝落ちしてしまうことが多いんですね。実際悩んでいたんですが、そういう時にこの本を読んだらコーヒーに関しても中々書かれているんで為になりました。ただ一杯で30時間起きっぱなしだったとか大分盛られているものですけども。その毒性についても結構口うるさく書かれているので心配にはなったんですが最近ブラックを1日に2杯飲みだしたんですよ。本当にコーヒー凄いですね。毎日睡眠時間3時間位で回るんですよ(確実に何処かでガタが来る)。本当に。作業もある程度捗りますし感謝ですねえ。読書に意味を持たせたくないですが、読んで意味があった。またこういう本を読みたい。最近はメディア論というのを知ったので関連の本を読んでみたいと思います。それでは。

#13 『仮面の告白』感想

f:id:sykykhgou:20160416163938j:image三島由紀夫仮面の告白』 新潮文庫

三月末から読んでいた本をやっと読み終えました。私にとっての三島由紀夫先生の2作目、先生にとってはデビュー作とも言える「仮面の告白」です。この作品はほぼ自叙伝ともいえるものですが、幼少時に従姉妹が主人公のことを「公ちゃん」と呼んでいるので分かりました。遅いですね。本名は平岡公威ですから。この作品は私が嘗て通っていた学校の先生に冗談交じりに薦められたものなのですが読んで正解だったと読み終えても思いますね。先生だけでなく読書好きの友人にも特に薦められましたし、これは読まないわけにはいかない。

幸いにも私には男色の気は全く無いので三島の嗜好を深く理解することはできなかった。しかしこの不理解こそ三島の苦悩をより鮮明に私に感じさせたのは確かなように思います。聖セバスチャンの殉教から完全にその趣味の自覚が始まったというのも(そういう方には全く失礼な話ですが)私には面白いものでした。因みに「聖セバスチャンの殉教」はこれ、二枚目は三島の趣味で撮った写真でしょう。f:id:sykykhgou:20160416165111j:imagef:id:sykykhgou:20160416165121j:image
三島はボディビルをやっていたという話をどこかで読んだ気がするのですが全て幼少期から始まる、貧弱な自分の容姿への嫌悪、逞しい青年への性的な憧れ、憧れから似たいと思う心から来ているというのもあるでしょうね。
そして随所随所に見られる化学方面での例え、文学の中にその様なものを用いる作家は中々いないのではないでしょうか。そういうところに真に東京大学法学部の教養といったようなのを感じる。僕の考え過ぎですね。
ここに来て気付きましたけどこの作品、感想を書くにはあまり向いていないように感じますね。感想も何も「さぞ辛かったんだろうなあ」くらいのもんです。流石にそんな事もありませんが。
私は学生の時、自分は本当にその気が無いのか、ふとすればそっちの世界に踏み込んでしまうのではないかと恐れていた時期がありました。その時にそういう趣味のある動画を見たのですがそっちの方向に"不能"だったので心から安心したのを覚えています。大多数の人間はこうあるのでしょうが三島には自刃で終えた短い生涯の中にもそういった安堵、自分は多数派なのだという自信はなかったのでしょう。しかもそういった瞬間だけでなく普段より女性に興味が無いというのは長時間、間髪も入れずに責め立てられているのと変わらないのではないか。そう考えるとその我々には決して解することのできない葛藤の辛さがより伝わってくるようだ。
毎度陳腐な締め方をしてしまうが、また一つ、この本を読み終えたことで自分の中の何かが涵養されたことを嬉しく思う。教養、懐の深さを得たい。

#12 『阿Q正伝』感想

f:id:sykykhgou:20160330102535j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

お前は一冊の本から何個ブログ記事書けば気が済むんだ、と当ブログ読者集合φから指摘されてしまいそうですが私にそんなことは関係ない。短い小説だと記事数稼げるんですよこれ、ね。Twitterでの告知を辞めてからというものアクセス数がめっきり減ってますが私は自己顕示欲というより自己満足や自らの思考の整理の為にブログを書く方が大きいので辞めるつもりは毛頭無い。ということで今回は「阿Q正伝」ですね。ずっと読みたかったんですよ。しかし良い時代になりましたよね。昔なんて知識は一部の層の独占物だったわけで、現代みたいに気軽に手に入れることは到底できなかったでしょう。いやぁ便利だ便利。読みたいときに買えるってのがいいですよね(親の脛に感謝)。それでは本題に。

この作品の大体の流れとして、阿Qという男の一生を追っていく形を取っています。この阿Qというのは、常に自分が他よりも上であるように考えようとする性質があり多少の曲者なのですが、実際は何もできずに他人からバカにされ続けている、というもの。彼は過去に、一度だけ賭けで大勝ちして得た銀貨も寝ている間に全て消えていたりと中々悲惨なのですが、それも阿Qの事なので可笑しく書かれている。なかなかコメディアンである。しかし読んだ人なら自分だけでないと思うが、その死に様だけは少し寂しさが残る。舞台となっている集落の未荘では、話の後半、革命軍の反乱が及ぶことを恐れるようになる。そこで阿Qは自分も革命家に加担することで未荘内での畏怖を得ようとするのだが結局革命軍には加担させてもらえなかった。しかし先程の阿Qの行動が全ての間違いであり、彼は政府側に捉えられてしまい、処刑されてしまう。結果として革命軍に加担できていないにも関わらず。こんなにも可哀想で惨めな死があるのか。しかも死ぬ間際、自分が文盲だということまで処刑人の側に知れてしまうことになる。生きている間に散々威張り散らしていたが結局彼は何もしていなかったし、できていなかった。それが最後の虚栄心、革命軍に加担することで人の畏怖の念を得たいと思ってしまったばかりに殺されることになったのだ。しかも本当の革命軍の人達が捉えられたのかについては触れられてもいない。
それでも彼が死ぬ間際に少し口ずさんだ「二十年すれば生まれ変わって男一匹」のフレーズは見物人を沸かせることができた。しかし今度は、それだけ口ずさんで死ぬと見物人から、あれしか歌えないのなら見に来るのも無駄であった、というような事を言われてしまう。阿Qはそこまでされなければならない人生だったのだろうか。私は否と思う。が、彼の積み重ねられた虚栄がそうさせたとも思える。真に難しいところである。
兎も角この作品は私の心に一つ感動を与えることとなった。良い作品だった。

#11 『故郷』感想

f:id:sykykhgou:20160330093128j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

これは非常に有名な作品ではないでしょうか。魯迅「故郷」です。まず中学校の教科書に載っていると思いますが、当時は読んでも何も思いませんでしたね。最後の部分も意味ありげだということしか分からない。そんな感じでしたが先程読んでやっと意味を理解することができました。そもそもこの作品を読むに当たっては確実に多少の儒教知識と魯迅の持つ考えを知っていなければ理解出来ないはずなのに何故中学過程の教科書に載せるのか。地上に道はない、人が通らなければ道にはならない、とかペーペーのガキに分かるはずがありませんよね。私もペーペーのガキだったわけです。

やはりこの作品にも魯迅の根底、"儒教社会あるいは古き中国への反発"がある訳ですよね。最後の部分や豆腐屋の楊おばさんなどの描写を見ても完全に悪意しかない、といった感じを受けます。自分が幼い頃居た故郷へは憧れよりも失望の方が大きいでしょう。昔は思想とかそんなものは無くてただ無邪気なだけだったから閏土とも隔てを感じなかったが今は大人になってしまい様々な隔て、壁を感じるようになってしまった。またそれは身分的な隔てだけではなく、香炉や燭台といった、魯迅儒教の遺構としか捉えないようなものにも表れており、ますます失望を加速させていることが分かります。近所の人も売ろうと思っていた家財道具を勝手に持っていってしまう、というのもあり憎いという感情も大きいのではないかと思っていたのですが、ここは感覚の差か作中の魯迅にそこまでの激しさは見受けられませんでした。しかし描かれ方が酷いなぁ…。
人が通らなければ道ができない、というのは儒教に疑問を抱く人間が多くならなければこれからの中国の進むべき道はない、と古臭い習慣に覆われた息苦しい自分の故郷を見て感じたのでしょう。

#10 『明日』感想

f:id:sykykhgou:20160329134141j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

今回も魯迅「明日」という作品です。この作品では病気になってしまった宝児という赤子とその母親の単四嫂子の所謂シングルマザー家庭の話が主になっています。この家庭というのはかなり生活に苦しい状態であり、母親は常に家で糸を紡いでいるのですが、このような辛い状況の中で宝児が病になってしまうのです。そして病院に連れて行き薬を飲ませるも、敢え無く帰らぬ人となってしまう、というものです。昨日から4作品程読んでいますが魯迅の作品には必ずと言って良い程薬が出てきて、且つ必ずと言って良い程効かないんですよね。今までの作品が作られた背景から言ってまずこの効かない薬というのは儒教を象徴しているのでしょう。そしてそれによって助からない人の命。魯迅儒教に対しどのような、どの程度の憤りを感じていたのだろうか。

この作品にもそうだが、魯迅作品によく出てくる茴香豆という食べ物が気になった。f:id:sykykhgou:20160329134101j:imageこれが茴香豆らしい。またこの作品の舞台の村である魯鎮はここにある。f:id:sykykhgou:20160329134242p:image以前読んだ「栽培植物と農耕の起源」にも記述があったが、この辺りは照葉樹林文化圏であるので、豆食がある程度発達しているのだろう。これよりも南に行くと段々芋を核とする根菜農耕文化センターがある。横道にそれたが個人的には非常に楽しい。
この作品を読む中で一つの作品がどうしても頭から離れない。それは谷崎潤一郎「母を恋うる記」である。作品の首尾を貫くうら寂しさ、読んだ後に残る早朝の様な静寂、青のイメージ、舞台になった場所、情景が違うのにここまで似るのか。まだ似ている点はある。それは死を以って母親と息子が隔てられるというもの。「母を恋うる記」では母の死、「明日」では息子の死を以ってしている。しかし完全に似ているわけではなく、前者の谷崎作品では静けさのある死への悲しみ、後者の魯迅作品では自分の核になり得る様な大切なものを失った慟哭が描かれていよう。悲しい雰囲気でこの文章を締めるのは自分が辛いので最後は滑稽な話題で終わりたい。
先程の両者は若干違うとはいえ、私の尊敬している先生が以前仰っていた、人間の想像力の乏しさも感じられると思った。個人的には感慨深い作品になった。