辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#9 『薬』感想

f:id:sykykhgou:20160329113844j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

今回も魯迅の作品です。これは全く有名ではないですよね。しかし魯迅の作品というだけあって「狂人日記」と根源にあるものは同じです。儒教社会に対する憤り、反発ということですね。おおまかなストーリーとしては、肺病(結核か?)にかかった息子を助けるために大枚叩いて迷信じみた薬を買い、飲ませるも効果無く死んでしまうというものです。この迷信じみた薬ってのは人血饅頭なんですけど、自分としては儒教云々よりもこっちの方が迷信のあり方も中国らしくてファンタジーを感じてしまいましたね。この作品の主人公的存在となっている息子の父親は店をやっているんですが、この店に来る人達の会話の中にも魯迅の嫌悪感が感じられてしまうようです。たわいも無い世間話、どこの息子が処刑された、自分の外にある事に対して好奇の目で見る事しかしない愚かな民。個人よりも集団で群れることを大事にする、一昔前の田舎者の様なもの、私もここは非常に共感できます。

にしても一種うら寂しいようなものが残りますね。

#8 『狂人日記』感想

f:id:sykykhgou:20160328200529j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

前回の更新遅れを取り戻すが如く更新の早い今回は魯迅の「狂人日記」です。魯迅といえば「漢字が滅びなければ中国は滅ぶ」という言葉を残した話が有名ですがその意味を私が理解するにはまだ早そうですね。歴史上日本に最も影響を及ぼしたと言っても過言ではない中国という国を一度くらい見てみたいものですナァ。ということで本題に入ります。

まず大体の感想から言うと、非常に面白かったです。内容は当にタイトル通りで、ストーリーと言うよりかは、精神障害を抱えた人が記した日記という形をとっています。被害妄想を抱く方向が、自分が食人の餌食になろうとしているという謎の方向に向かっているのが本当に面白かったですね。行動が完全にたまに居るこういう人と、それを好奇の目で見る周囲の関係に陥ってて益々被害妄想が膨らんでいくんですね。この作品は魯迅の初期のものらしいですがこういう愉快な作品を書けるというのは真の才能なんではなかろうかと思いますね。
読んだだけではこの小説が何を言わんとしているのかよく分からなかったので軽く調べました。儒教社会の打破を目指す中での葛藤なんですかね。儒教を嫌う一方で自分もその儒教を構成するものの一つであるということに対する葛藤。ここだけ見ると難しくないですけど、読んでこの内容が分かるかってのは確実にNoですね。狂婦が自らの子供の肉を喰らったとかの事件を受けて、社会が賛成的な態度を示したことも当時の魯迅の運動を突き動かしたものなんでしょう。中国には中国の葛藤があるんですなぁ。もう少し読んでいきたいですね。
 
と、書き終わろうと読み返してて思ったんですけど、作品中において儒教を象徴しているものが食人(当時の事件も踏まえて)という考えに至ることはできるのでそれに対して狂人が日記を書き反発していくという形式なのは理解できますね。狂人は魯迅の心の代弁者ととして書かれているはずであり、作品末の「せめて子供を……」によって自身に巣食う葛藤を表しているのでしょう。

#7 『栽培植物と農耕の起源』感想

f:id:sykykhgou:20160324015323j:image中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』 岩波新書

殆どいないに等しい当ブログ読者の皆さん、更新の大幅な遅れが観測されたと思いますがそれは幻ですよ幻。気にしないでくださいね。なんか新書になった途端遅くなったんですよね。読むのが。今回は多少学術系の話題でもあるので多分読むスピードと頭の働きが反比例したんでしょう。許してください。

ところで本題に入ります。私は科目でいうと地理が凄い好きなんですね、得意じゃなくて、好きね、これ、重要。今回は農業関係ということで自分が踏み込みたかった領域の一部な訳です。内容の大体としては根菜農耕文化やサバナ農耕文化などで見られる作物の起源などについてですね。少し脱線しますがこの本を読んでる期間にアメ横に行ったんですよ私。そしたら「西米」という食材が売っていたので、グー○ルで調べたんです。そしたらその西米というのは今回の本に載っていたサゴヤシという樹内にデンプンを溜め込む木を加工した物だったんですね。しかもそれによって作られる食料がタピオカっていうもんだから驚きの連続でしたよ私。アメ横センタービル地下でまさかの3つの点が繋がって線になったんですね。一人で携帯弄りながらニヤついてましたけど。
こういう感じの本て知識を得て考えるだけだから感想とか「ああ、知れて良かったな」程度しかないと思うんですよね。ということで今回はこの辺で。

#6 『偸盗』感想

芥川龍之介羅生門・鼻・芋粥・偸盗』 岩波文庫

今回は芥川龍之介の「偸盗」ですね。この本はどこかで読まされた気がするんですがあの時の自分の集中力では偸盗程度の作品すら読めなかったんですかね。にしても司馬遼太郎の作品は幾つか読んでいたので多少不思議です。情けないもんですが。取り敢えず途中まで読んで本棚で何年か放置されていたのでこの機会に私が拾いなおした訳です。取り敢えず小説はこれで読むのを一旦辞めようかと思っているのですが先日父親からの小説文庫本大量供給を受けてしまいました。自分の金で買わなくていいので誠にありがたい話ですがノルマが増えてしまいましたね。雑談はこの辺にしておきます。

今回の作品を読み進めていく中盤までの中で一つの考えが自分の中にありました。「これ、何をどう書きたいのか全く分からねえ」ということです。いや本当に分からないしなんだこれ、って感じでしたが最後の部分で一気に畳み掛けてくるように全体が見えてきました。生きることと死ぬことをよく対比させる様に描いている、ということがそれです。猪熊の爺の死に対する阿濃の赤子の生。戦いが終わった後の重い雰囲気が連想させる死のイメージに対して、赤子によって和んだ生のイメージ。これに加えて爺が見た夜の闇と灯火の火もこの対比に当てはまる様に感じました。数多く書かれていた対比の中でも最も鮮烈で皮肉な対比だったのはやはり阿濃が検非違使に語った沙金の死に際でしょうか。「主人がよく人を殺すのを見ましたから、その死骸も私には、怖くも何ともなかったのでございます。」白痴の者が語っているというのも含めてなんという皮肉。まさか自分のしてきたことが自分の死も交えた形で語られようとは沙金は夢にも思っていなかったでしょう。
当初太郎と次郎が沙金を巡って互いに殺意を覚えていました。そして沙金も次郎と同じく太郎に対して殺意を覚えていました。しかし兄が弟の死にそうなのを見て全てが翻り、今まで兄弟が沙金に感じていた性の魅力を覆したというのは一種美談的な要素を含んでいるのでしょうか。また猪熊の婆が爺に見せた命懸けの愛も確実に意味を持っているはずなのですが考えても分かりそうにないですね。婆の愛もただ虚しいものに終わってしまった、というだけではないことを信じたいです。それだけなはずは勿論ありませんが。

#5 『母を恋うる記』感想

f:id:sykykhgou:20160314204321j:image谷崎潤一郎『刺青・秘密』 新潮文庫

高が一冊の文庫本程度でいつまで谷崎作品で引っ張るんでしょう。全く情けない話ですがこれが最後なので許して下さい。これが終わったらあと一作品だけ小説を読んだら私は思想の勉強をしようと思っていますので、いないであろうこのブログの読者集合φの皆さんは楽しみにしていて下さいね。

しっかしこの作品には本当に吸い込まれました。最初から最後までですね。何かに美しいと思う心ではなく、物凄く寂しいという感情です。まずなんでしょう、うら淋しい夜の風景にせよ、乾いた蓮の葉音にせよ、飯を炊く老婆にせよ、全ての描写が読む者を引き込む。引き込まれて自分まで夜の白い一本道を歩かされている気分になってしまう。田舎に引っ越したせいで恋しい日本橋への未練もより一層寂しさを際立てせていますね。またそこで嘗て遊んでいた子供達の描写もしているのも本当に引き込むのが上手です。えらい上から目線で申し訳ないですが誰も読んでいないので許されるでしょう。
まず読んでいく中で気になるのが、この少年の家は果たして存在するのか、という点です。途中出てきた老婆の家からしたのは紛れもない「嗅ぎ馴れた味噌汁の匂い」でした。そして中に出てきた老婆というのはただの他人ではないような気がしてならないのです。この少年は長い夢の中で老婆に突き放すような態度を取られるわけです。これは結局亡くなった母を追った結果、夢が見せた幻なのか。幻ではなく現実だとしてもこの部分と繋がることはあるであろう。いくら考えを巡らせどもこの作品の題名が「母を恋うる記」である以上この考えは拭えない。また最後に出てきた三味線を弾く女。これは本当の母であると分かるわけだがこれが何を示唆しているのか。お白粉の落ちない肌、というのは血の通っていない死体のメタファーであるのかもしれないが、それは言い過ぎであるように思う。何も私は正解を求めている訳では全くないですが、この作品を書いた谷崎潤一郎の考えを多少なりとも知りたいと思うのです。
いやあ僕にあまだ早かつたのかなあ。

#4 『二人の稚児』感想

f:id:sykykhgou:20160314163626j:image谷崎潤一郎『刺青・秘密』 新潮文庫

今回も同じ本から「二人の稚児」という作品です。この作品は自分にはそこまで響きませんでした。恐らく自分が、心に響くだけの器ではないからでしょう。まず第一にこの作品の要がどこにあるのか全く知ることができない。美しい情景の描写というよりかは、人間が誘惑に呑まれていく様をある種滑稽に描いているように思います。こう書くと兄千住丸の姿がありありと浮かぶようですが私はそれだけでは済まさない。千住丸が淫蕩に溺れていく様を比叡の中から侮蔑しつつもやはりその心を捨てきれない瑠璃光丸。確かにこれは仏道から見た煩悩の最たるものであろう。最終的に瑠璃光丸は屈強な精神力、仏道に忠実であろうとする心によって比叡山内に止まり、物語を書き終えた後も高名は僧になるということは想像がつく。瑠璃光丸はその歳の若さ故か煩悩を断ち切る為に千住丸を見下し、「血は争えない」という言葉を胸に兄を見下すが、これも煩悩だということに本人は気づかない。仏道修行とはいえ人を見下すことで得る優越感は良いはずがない。煩悩にまみれている自分でもその位は分かる。しかもこの葛藤の根源にある「見たこともない比叡の外の女」の存在が最後までに瑠璃光を惑わしていることも分かります。それは何故というと最後の部分、夢で告げられた「前世でお前の事を好いていた女が鳥に姿を変えて比叡山の山頂で傷を負っている」という瑠璃光の惑いの根源にある女の存在がとうとう仏道に混じって出てきている。全く面白すぎる。ここを読んでいる時声を出して笑いましたよ。どれだけ女のことが気になっているんだ。お前も比叡山を降りて淫蕩に耽る日々を送ってもいいじゃないか、って感じですね。淫蕩からのファーストコンタクトにギリギリ耐えるもやはり我慢できなかった童貞の話だったのでしょうきっと。自分にはまだこの作品は早すぎた。

#3 『少年』感想

f:id:sykykhgou:20160311222410j:image谷崎潤一郎『刺青・秘密』 新潮文庫

今回は谷崎潤一郎の「少年」という作品です。刺青っていうと「ああ〜」みたいな反応されることが多いのでそっちの方が有名なんでしょう。自分はまだまだ未熟者の童貞なので「刺青」を読んでもイマイチピンとこなかった、というのが大雑把な感覚です。しかしこの作品はビリビリ来ましたね。この2日で谷崎作品を3作品読ませて頂きましたが、いずれも根底を流れるテーマとして"衝動"というのが挙げられているように思います。「刺青」では美への追求衝動、「少年」ではサディズムマゾヒズムへの無意識の衝動、「幇間」では人の下に居るという一種のマゾヒズム、がテーマになっているんではないでしょうか。特にこの「少年」という作品においては、子供ならではの"無意識なエロティシズムを薄く含んだ快い衝動"がよく表現されており感動しました。何故感動したのか考えましたがやはり、誰しもが幼い頃経験したことのあるエロへの接触、無意識な歪みや快感といったものに依るところが大きいのではないでしょうか。

普段学校では非常におとなしいが家ではすっかりサド的衝動に取り憑かれている金持ちの息子の信一、学校では餓鬼大将であるが信一の前ではマゾ的衝動にやられている仙吉など、様々な性格を持った少年達を通して描かれているように思います。また信一の住む西洋風屋敷という幻想的な風景がより一層、読む者の気難しい性への衝動を掻き立て、美しく感じさせるのでしょう。美しい物とはそれだけで罪作りなもののようにさえ感じてしまう。
幼いというのは恐ろしいものです。人に暴力を振るうことで得る快感、人でなくても虫の柔らかい腹を捻りつぶすような心地よさ、これらのものが異常であるとは誰も言うことができないでしょう。しかし大人や世間から見れば明らかに異常であり、ただ幼いという理由だけでその存在が許されている行為であります。行為者である幼い少年は、その異常性に気付く間もなく、自分達の世界に没頭していくのでしょう。気付くことがない、というのが恐ろしい。しかしその行為、考えは純粋無垢でありどこか美しい、そう感じてしまっている自分自身に対しても恐ろしく感じてしまいます。
自分がこの作品で最も美しく感じた場面は何と言ってもやはり、今まで信一にやられる側であった腹違いの姉、光子が最後にマゾからサドへ立場を全て逆転させたところですかね。光子が今まで本当にマゾ的快楽を感じていたのかどうか、潜在的にサド的性格を内に秘めていながら信一の暴挙に抗わなかったのか、私には定かではありませんし恐らく読む者の全員がそうでしょう。しかしそんな考えをすべて一掃するエロティシズム、美しさがこの場面にはありました。普段誰も入らぬ洋風の部屋の緞子の奥、暗い闇を仄かに照らす蝋燭を乗せられる仙吉と主人公。手は既に縛られており身動きは取れず、ただ溶けた熱い蝋が顔へ滴るのみ、美しすぎるサド。自分はそういった類にはそこまで深入りはしていませんが、確実に私は世界で最も美しい女王を見ました。