辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#36 『赤と黒』感想

スタンダール赤と黒新潮文庫

今回はスタンダールの『赤と黒』です。自分は文学を真面目に勉強しているわけではないので詳しくないですが、前半は不倫文学というやつなんでしょうかね。そんな言葉あるのかな。名前しか知らないですがフローベールの『ボヴァリー夫人』もそうなんですかね。私は恋愛が絡む小説が苦手でならない。恋愛が絡むだけでつい舌打ちが出てしまう。恋愛が嫌いと分かった瞬間大体3割くらいの小説は嫌いということになってしまうんだろうか。仮にそうだとしても実害は余りないので雑談はこの辺にして本題。

この作品の主人公はジュリアン・ソレルという若者。田舎の材木屋生まれだが記憶力と容姿に優れ、ラテン語が堪能なためヴェリエールの町長レーナル家の家庭教師となる。このレーナル家の夫人(レーナル夫人)と不倫関係となってしまうことからこの話が始まる。レーナルの屋敷では、基本的にジュリアンがレーナル夫人を手懐け、手綱を引いていたのだが、あることをきっかけにブザンソンの神学校へ入学させられることとなる。文学に内容の面白さを求めるべきではないと思うのですが、個人的に面白いと思ってるのはこの辺からなんですよね。今までの場面は全てヴェリエールという地方の片田舎だったのに急にブザンソンという都会に変わる。ブザンソン最初の出来事もカフェでウェイトレスに好かれるという何とも軽快なもの。ここからノッてくるんですよ。実際ではどういう分かれ方をしているのか分かりませんが、私が読んだ新潮文庫版では上下巻がそれぞれ第一部と第二部となっており、私は第二部からが本番だと思っている。第一部は言ってしまえば田舎やブザンソン神学校でのジュリアンの暗い下積み時代。しかし第二部はジュリアンの野心を大都会パリで成功させていく出世の物語。こっちの方が面白いですよね。

材木屋の役に立たない息子だったジュリアンはラテン語を解していても材木屋では役に立たない。それが町長レーナルの家庭教師となったかと思うとパリに出たらラ・モール侯爵に見込まれて側近となった。ジュリアンの出世において重要な役割を演じたのがこのラ・モール侯爵であった。ジュリアンは、毎晩痛風で動けない侯爵の話し相手となる役割を任され、見事に侯爵の退屈を凌ぐどころかとても楽しませる。小説の世界であるが出世のチャンスはどこに転がっているか分からないものです。目まぐるしく展開される出世物語に胸踊らせないことがありましょうか。いやあこの辺は楽しいんです本当に。いつの間にかジュリアンは貴族の一員の様になっていた。しかもラ・モール侯爵の娘マチルド嬢も彼へ関心を示し出した。嘗て彼は社交界の貴族全てを憎んでいたのに、マチルド嬢の存在は彼にとっては別だったと言える。マチルドは容姿端麗で才気に溢れ、勇気もある女性だったがその分男勝りでじゃじゃ馬でもあった。しかしジュリアンはマチルドに侮辱されながらも何とかマチルドの気に入り、二人は愛し合った。やがてマチルド嬢とは恋が終わるように見えたが何だかんだで続いていく(感情の起伏が事細かにしるしてあるので大部分割愛)。先ほど愛し合ったというふうに言ったが、正確には半分しか合っていない。互いに愛しつつも軽蔑し合っていたという方が正確だろう。マチルドはジュリアンを愛しつつも身分の低い男を好きになってしまったという負の感情もあり、相手を見下していた。ジュリアンはマチルドの溢れる才気に魅了されつつも貴族の女から好かれているという優越感に浸っていた。ジュリアンが身分の高い女から好かれることで優越感に浸るのはこれが初めてではない。レーナル夫人のときもそうであった。しかし対マチルド恋愛と対レーナル夫人恋愛との決定的な違いは、マチルドの方がはるかに自尊心、独立心が強いということである。レーナル夫人はジュリアン100%で依存していたがマチルドは全くそうではない。この手懐けることの難しさがジュリアンを惹きつけたのだろう。遂にマチルドはジュリアンと駆け落ちする。勿論ラ・モール侯爵は激怒したが、マチルド側と侯爵側との駆け引きの中で、ジュリアンはかつての愛人レーナル夫人がラ・モール侯爵に手紙を書いていたことが知れる。その内容はジュリアンの積年の夢、成り上がり、身分の高い人間になること(この一環として貴族の女性を手懐けるというのもあったのだろう)を崩し兼ねないものだった。夢が叶うと思われた直前に崩されたのだ。これにジュリアンは激怒し、昔懐かしいヴェリエールを訪れ、ミサ中に祈っているレーナル夫人を背後からピストルで撃った。彼には斬首刑が決まり、牢屋に入れられた。彼にとってレーナル夫人は死ななければならなかった。しかしレーナル夫人は一命を取り留め、日に日に快方に向かっているということまでがジュリアンに知らされた。彼は絶望したが、絶望の中でマチルドが牢を訪れるようになり、やがて夫人までもが彼を訪れた。この時、私はこのレーナル夫人を異常な存在だと思った。彼女はジュリアンに撃たれたことを一切憎んでいないのだ。夫人は、ジュリアンがヴェリエールを離れ、ブザンソンの神学校、ラ・モール侯爵邸と渡り着々と名声を勝ち得ようとしていた間、恐らく片時もジュリアンのことを忘れてはいない。そして自分がジュリアンを愛するという人の道に外れた行為とその罪悪感を払拭するためにジュリアンに殺されたいとすら思っていた。そう思っていた折にジュリアンがピストルで自分を撃ったのである。全くどうかしている。刑の数日前からジュリアンの心にはレーナル夫人しかなかったといってもよい。この時には恐らくマチルドの存在は小さくなっていよう。ジュリアンの葬式にはマチルドが出席し、彼女は墓を立派に作った。しかしレーナル夫人はジュリアンが死んだ3日後に3人の子供を抱きながら死んだ。

色々と納得いかない。ジュリアンと共にあるのはレーナル夫人だとでも言うのか。あれだけジュリアンは出世に目がくらみマチルドに惹かれていたというのに。この作品について深く考えるのは頭が疲れそうなので考えない。

初め、私はこの作品について一種嫌悪感を感じていたが、今ではこの作品は、実力ある若者の立志と恋、そして破滅までを巧みに描いたものに思える。しかし、細かい描写が多過ぎるようにも感じる。ああまで細かい描写をするのであれば谷崎潤一郎のように短く簡潔であるべきだとも思うが、出世を長く描くのであれば長くなるのもやむを得ないのかもしれない。

三島由紀夫作品に見る"死"の断片

1925年1月14日、鮮烈な人生を、誰よりも早く駆け抜けた一人の知識人が、四谷に生まれた。三島由紀夫である。彼はほとんど昭和が始まると同時に生まれ、日本が、良くも悪くも様々なことを経験した時期と共に生きた。そしてこの知識人は1970年11月25日、切腹し自ら人生の幕を閉じた。享年45歳であった。

私はどうしてか、この三島由紀夫という男から目を離すことができない。最初に読んだ彼の作品『金閣寺』が余りにも響いたというのもあるだろう。しかしそれだけではないように感じる。それが何であるかは分からないのだが。今回は主に「経験」と「作品」の二つから彼の"死"への志向、眼差しを少し考えていきたい。

1.『豊饒の海』と"死"への眼差し

彼は割腹自殺の直前、つまり最後に『豊饒の海』四作品を書き上げた。『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四つである。これらの作品は順に同時間軸上に置かれている。『春の雪』に登場する松枝清顕が仏教で言う転生を繰り返しそれ以降の作品にも現れるという作りだ(正確には『天人五衰』には現れていない)。そして重要なことは松枝清顕の親友である本多繁邦は全作品を通して登場しているということである。松枝清顕と本多繁邦は『春の雪』においては学習院高等科の学生だった。松枝は侯爵家の一人息子であり将来を約束されていたようなものだった。そして何よりも彼は青白く、あらゆることに冷淡な性格だった。つまり第一段階における"死"は三島にとって非常にセンシティブで美しく清らかなものだった。一種展示物のようでもある。松枝清顕は一作目作中で死んでしまうが、本多繁邦はその後東京大学法学部に進学、大阪控訴院判事となり、それ以降の全ての作品にも登場する。段々見えてきたと思うが、三島由紀夫東京大学法学部卒業であり、専攻は法律学。そして本多も同じく法学を修めている。つまり、本多は作中において三島由紀夫自身を投影した像としての一面があると言えよう。しかしまだこれだけでは早とちりが過ぎる。四作品の中で死と転生を繰り返す松枝清顕は何であるのか。私が考えるに、恐らく"死"そのものである。ここで一つの構図が浮かび上がる。四作品を通じて死と転生を繰り返す松枝清顕"死"を長い間側で見守り、それに関するあらゆる思考を続ける本多繁邦すなわち三島由紀夫自身、というものだ。しかしこれでもまだ足りていない。二作目『奔馬』において"死"はまた異なった様相を呈す。松枝は飯沼勲という右翼青年となって再び本多の前に姿を表したのだ。飯沼は危険すぎる程純粋であり、常に「何事か」を成し遂げようと考えていた。私は読んでいて、飯沼が向かっているものは政治的な目標こそ明らかになっているものの、それは遠近法の消失点の様に、先の見えない試みであるようにも感じた。飯沼は最期、潔白な目標を汚されたとの思いから標的の政治家を殺した後、自刃した。これが二作目における"死"の全てを表していると言えよう。三島は"死"を若々しく謳歌される純粋なものであると同時にそのものの果てしなさから迷いを抱いていたのではないか。この時には冷たく美しい展示物は抑え難い熱を持って暴れ出している。三作目『暁の寺』で表現された"死"はいよいよ三島自身へ接近する。インドの月光姫として生まれ変わった松枝は非常に魅力的な妙齢の女性として描かれる。若々しく、瑞々しい肉体美を誇って本多繁邦を魅了する。かつて松枝清顕、飯沼勲に共通していた脇腹に三つ並んだ黒子が存在するか否かを確かめるため、老いた本多は月光姫の部屋を覗き見る。確かに月光姫には黒子があった。もう分かっていると思うが、三島は"死"に魅了されているのかもしれない。これに関して強い確信は無いのだが、くだらないブログ記事として聞き流して下され。そして最後、『天人五衰』に現れる"死"を見ていく。見ていきたいのだが、これが非常に難しい。『天人五衰』において、老いた本多は偶然訪れた港で安永透という16歳の少年と出会う。彼の脇腹には三つの黒子があった。本多はこの少年を松枝の生まれ変わりと信じて養子に迎え入れた。しかし安永は次第に横暴になり本多に暴力を振るうようになる。暫くして安永は自分が松枝清顕の転生者と信じられていたからこそ本多が迎え入れたということを知る。転生者であるならば20歳で死ななければならないことも知った安永は服毒自殺を図るが死ねなかった。安永は転生した後の松枝ではなかったのだ。私はこの四作目『天人五衰』には疑問を抱いていた。これでは全く意味が通っておらず分からない。しかしこのことについては確か澁澤龍彦三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫)の中に記述があり、三島が当初違った結末を書こうとしていた旨が書かれている。私の疑問は間違っていなかったのかもしれないが四作目入稿日に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺されては読者の疑問は永遠に解けないではないか。本人がもし生きていたとしてもその点の説明は無いだろうと思うが、死んでしまうのは何よりも残念である。ともかく、長々と説明してきたが、『豊饒の海』で描かれた"死"は当初美しく冷たかったが熱を持って暴れだしたかと思うと女性のように柔らかく三島を魅了していく、というものだった。

2.『金閣寺』と"崩壊≒死"

鹿苑寺の学僧であった溝口は吃音に悩んでいた。彼の色褪せた世界の中で一際輝きを放っていたのが金閣寺であった。しかし現実の金閣寺には父から伝えられていたほどの美しさは無く、溝口は困惑した。自分が長年憧れ、心の拠り所としてきた金閣寺が美しくない筈がない、と。そして溝口はついに金閣寺に火を放ち、その美を永遠に自分の中に閉じ込めようとした。「金閣寺がこんなに美しくない筈はないから元の美しい金閣にしてやろう」という心が感じられる。この作品に描かれるのは世間に馴染めない溝口の鋭い狂気だ。狂気は言いすぎかもしれないが金閣への異常な執着、そして本来在るべき場所に戻そうとする試みだ。思い出さないだろうか。三島は"死"にこそ美の極致があり、その一瞬の美の昇華をこそ望んでいたということを。『金閣寺』作中において金閣寺に火を放った後の溝口については詳しく描かれていない。小説である以上金閣寺が燃えるシーンにクライマックスを持ってきた、というのは勿論あるだろう。しかしそれ以前に、三島は"崩壊の瞬間"="死の瞬間"="美の極致"にしか興味が無かったとは考えられないか。勿論金閣寺を燃やした溝口はそれより先の時間を過ごせるだろう。しかし死んだ人間はそれより先の時間は過ごせない。有終の美とでもいうのだろうか、寧ろ三島の美意識においてその先の時間は過ごしてはならないのだ。三島は金閣寺そのものなのだ。

3.『午後の曳航』と英雄の"死"

この作品の主人公は横浜で舶来品を扱う店の息子。やがて塚崎竜二という船乗りと自分の母親が良い関係になり出した。少年は塚崎の中に栄光や大義のために海を行くカリスマ性を見出す。そうして竜二を尊敬していた少年だが、やがて竜二は母の経営する店の手伝いや舶来品に関する知識をつけるようになった。少年はこのことに深く失望した。そして友人ら数人とともに竜二を山にある洞穴に呼び出し、睡眠薬入りの紅茶を飲ませる。竜二は少年らが理想としていた元英雄だった。しかしその英雄が「家庭に入る」「店の手伝いをする」などという裏切りは断じて許されない。そのため少年たちは英雄を殺すことで本来在るべき場所に戻そうとしたのだ。英雄は永遠に英雄でなければならないとも言うべきか。もう私が何を言おうとしているか分かるでしょう。塚崎竜二は、美しい姿を失った金閣寺であり、三島由紀夫自身でもあるのだ。

4.三島が体現した"美"

三島由紀夫が死に対してどのような考えを持っていたかは上で説明してきた。ここからは彼の作品ではなく実生活の話を少ししようと思う。彼は30歳のときボディビルを始め、割腹自殺する45歳まで続け通した。これも澁澤龍彦三島由紀夫おぼえがき』の中で書かれていたものと思うが、三島由紀夫切腹する為に腹筋を鍛え上げていたというのだ。贅肉を極限まで無くし、逞しく隆々と鍛えられた腹筋に自ら刀を突き刺すその瞬間、三島自身が美の極致、頂点、美の体現となり、時間を永遠に断ち切る命懸けの試み。彼の"死"にはそういう意味が込められていたのだ。そして彼が意識してか意識せずしてか、彼は自身の小説の中で少しずつ自らの死と美意識を晒していた。私は、自分の敬愛する作家がこのような考えに至ってしまったことを実に残念に思うと同時に、彼の実現しようとした美を全力で見たいと望む。彼の行動の唯一の失敗を挙げるとすれば、彼が切腹によって為そうとした美がその類い稀な才能によって一瞬ではなく永遠のものとなってしまった点だろう。私は、三島が既に存在していない世界の、一瞬の美の後に残された悲しい世界の一人の読者として、これからも三島が遺した美を考え続けたいと思う。

 

尤も、三島は美を"遺した"などとは微塵も思っていないだろうが。

#35 『英単語の世界』感想

寺澤盾『英単語の世界』 中公新書

最近よく本棚の並びが私、気になります。私はなるべく多くの本を棚に収納したいので文庫本の段や新書の段、大きい本の段という風に大きさによって段ごとに分けて使っているんですが、そうすると関連のある本数冊をまとめて置くことができないんですよね。一段目のあの本と同じ著者の本は三段目のあそことか。割とイライラしたので並べ替えようとしたのですが余りにも見栄えしないというか、汚いので即止めました。仕方ないことなんですかね、諦めます。

今回の本は英語関連です。見りゃ分かるか。寺澤盾氏は東大で英語の研究をしている教授、つまり日本有数の英語使いである訳です。寺澤盾氏の父は『英語語源辞典』や『聖書英語の研究』を制作した寺澤芳雄氏です。自分は毎回著者の経歴とか少し調べてからその本を読むんですが、意地が悪いとかそういうことではなく、どんな本であるのか以前に、どんなバックグラウンドを持っているかを知ることは理解の上で非常に重要だと感じているからやっているんです。私のような若造は本だけ読んでもその本の内容しか目に入って来ませんが著者のバックグラウンドを調べるとその本の位置というか座標みたいなものが少し分かると思うんです。んなこと常識か。失礼致しました、それでは本題。

この本は主に英語によくある受験生の敵、多義語が何故その意味とその意味を兼ねるようになったのか、どうしてこの様な使われ方をするのか、などを古英語や中期英語、古ノルド語などの使われ方の変遷から紐解いているもの。著者もまえがきで言っているように、「英語学や言語学を学んだことのない読者」にも非常に分かりやすくなっているのでとても読みやすい。この本を読み始めて1ページ目に"bar"という単語がなぜ棒や棒状のもの以外に酒場などの意味を持つようになったかの説明があるのですが、正直なところ「この本、良くないなあ」と思ってしまいました。だってそんな書き出しで誘ってきたら止まらなくなるに決まってますからな。勿論止まらない訳です。電車の中でサラリーマンに挟まれながらこうも集中できてしまう。この著者の教養の深さに感服。この手の"面白い"感情をもっと得たいなあと思っているんですが、中々そうはいきませんよね。話を戻します。意識したことは無かったがこの本に気付かされて特に面白いと思ったのは英語や日本語の比喩について。メタファー(隠喩)というのは我々に馴染みが深いと思うがそれ以外にもまだある。この本ではメトニミー(換喩)とシネクドキ(提喩)が主に挙げられている。メトニミーは近接性を利用した比喩、例えば「酒が割れた」や「手習い」などがこれに当たる。割れたのは酒ではなく酒が入れられた瓶であり、手と言っているが手を指すのではなく文字を指している。これらは近くに存在しているという理由で本来示すべき言葉の代理をしているのだ。シネクドキは包含関係を利用した比喩。飲み屋の常連が一見さんに対して「お前見ない顔だな」と言ったり、「その大学には優秀な頭脳が集まっている」と言った時の「顔」や「頭脳」はその人の持つ、あるいはその人に含まれる特徴の一つを提示している。一部を提示することでその対象物全体を表している。こんなことは今まで意識したことも無かった。非常に面白い。

他にも、語形が似た単語同士の意味変化もある。extinguish(絶滅する)とdistinguish(区別する)、anecdotes(逸話)とantidotes(解毒剤)などの言い間違いはしばしば起こる。この様な間違いをマラプロビズムという。私も少し英文に触れていなかっただけですぐ見間違えてしまう。この言い間違いから語の意味が変化すると言ったが、God bless you.という時のblessは元々bleedと同じ血に関する語であったのがbliss(至福を恵む)と混同されたことが理由であるという。何という素晴らしい教養。他にも此処に書いてしまいたいことは積もる程あるのだがキリが無いので控えることにする。

とにかく、ここまでウィットに富んだ本は読んだことがなかった。これからも今回の様な読書を望む。

#34 『茶の本』感想

岡倉天心茶の本講談社学術文庫

今回のこの本、知ってる方もおられると思いますが、この本は元々英語で書かれたものであり、原題を『The book of tea』、岡倉天心(覚三)が東洋の茶道文化や美意識を欧米に伝えんとして書いたものです。私は勿論日本語で読みましたが。しかしまぁ、本を読んでいると稀に「この本超面白え、止まらねえよ……」みたいな本に出会います。この『茶の本』も確実にその内の一冊でした。この手の本にしては比較的短いのだが、この中に岡倉天心の持つ実に面白い知識の数々が詰め込まれている。しかも茶道に関して一般的な知識しか持っていなくとも知識と知識が次々に繋がって非常に刺激的。ビリビリ来て楽しい。

まず、下の文章はまだ1章に書かれているものだが、余りにもセンスがあるのでニヤけることしかできない。

In our common parlance we speak of the man "with no tea" in him, when he is insusceptable to the seriocomic interests of the personal drama.

人がその人生の劇に起る厳粛にして滑稽な関心事に無感動であるならば、われわれはそういう男を、俗に「茶気がない」と言う。

この文章で辞書でも解決できないのは"with no tea"の部分ですが、日本語では「茶気がない」としている。「茶目っ気」に似たような語感がありますが、本当に面白くないですか。英語と日本語との交通の中で見えてくる日本語の面白みを見事に捉えた英語。これが日本の文化を知り尽くした日本人が書く英語なのかと、脱帽。歴史の教科書に一言しか出てこない人物の凄味を早速垣間見る訳です。また、1章のタイトルは

The cup of humanity

人情の碗

となっている。なるほど、cupという単語だけ見ると西洋の、ソーサーとセットになったティーカップしか思いつかないが、東洋の茶碗も確かにcupである。しかも茶を飲む器という点で通じている。ははあ。岡倉天心は作中3章で近松門左衛門のことを「わが日本のシェイクスピア」と称した。その上で1章のこの文章。

The outsider may indeed wonder at this seeming much ado about nothing.

なるほど局外者には、この空騒ぎめいたものが不思議に思われるかもしれない。

とある。シェイクスピアの戯曲「空騒ぎ」の原題は"Much Ado About Nothing"。1章と3章という離れた文の中に散りばめたシェイクスピアに関する言葉。エロすぎる……。即卒倒。

他にも禅≒茶道文化の特徴として「虚」の重要性と抽象への愛好を論じた上で、古代仏教に見られる鮮やかな彩色仏教画と禅に見られる質素な水墨画の違いを述べるなどしている。確かにそうであるなあと頷いてしまう。実際電車の中で何度も頷いてました。

自分はこの『茶の本』日本語訳は今回の講談社学術文庫桶谷秀昭訳しか読んでいませんが、大変な名訳であると感じました。ド素人にもこう思わせる桶谷先生の日本語能力、翻訳技術に感服です。こうも素晴らしい本に出会えて良かったと思える一冊でした。

#33 『風姿花伝』感想

世阿弥風姿花伝岩波文庫

今回はいかにも古典という感じの作品ですね。こういう作品を数多く出版する岩波書店さん、本当にありがとうございます。これからも沢山買い続けるので沢山古典を出版して下さい、お願いしますよ。ということで岩波書店さんへの感謝挨拶は終わりです。

風姿花伝」というのは父である観阿弥が授けてきた教えに自らの解釈を加えて、子である世阿弥が記したものです。この作品の成立年代は室町時代でしょうから、高校の授業などで扱われる古典よりは年代が下るわけです。やはり平安の文章よりも全然読みやすかったですね。岩波書店が古典を文庫本で出版する時に現代語訳を付けるかどうかを決めると思うのですが、どういう基準を設けているのかは分かりません。しかし、もし読者層を見越した上でスラスラ読めるラインを見極めて最低限の解説しか書かないという判断を下しているのであれば凄まじい嗅覚と言わざるを得ない。脱帽に脱帽を重ねて頭皮ズル剥けた。

先にも述べましたがこの古典作品は能の演者が、能を演じるにあたってどういうことを心がけるべきかということが主に書かれています。ずっとそうです。章立てとしては

  1. 年来稽古条々
  2. 物学条々
  3. 問答条々
  4. 神義に云く
  5. 奥義に云く
  6. 花修に云く
  7. 別紙口伝

の7つ。1章では年齢ごとにすべき稽古の種類や芸の腕の上がり方などについて、2章では物学(物真似)の巧拙やコツについて、という風に続いていきます。能には(歌舞伎にもあったような気がしますが)三番叟と言って神前で行う舞もあるので、結構神事や神道に近しい存在なのでしょう。知りませんでした。私が知っている歌舞伎の三番叟に「操り三番叟」というのがあります。詳しいことは不勉強なので分かりませんが、幼い演者が操り人形を演じており、人形師的役割を持った人の動きと巧みに合わせながら人形を演じるというもの。見れば分かると思いますが、この演目中々奇妙で、操り人形役は背後に居る人形師の動きを全く見ていないのに動きが完璧に合っている。恐らく笛や謡の音だけで動いてるのだと思いますが、人形役の無表情さと相まってなかなか面白い。オススメ。ところで、作中に「申楽」という言葉がよく出てくる。自分はこれを猿楽と思っていたのですが、本当は神楽の神の字から偏が取れた形を用いているという。まあ諸説あるんでしょうが、こういうことからも読み取れるように神事との関係が深いんでしょう。これは完全に雑談ですが、以前、初めて狂言を見に行きました。能ではありません。学校の鑑賞会などで見たことはありますがあんなものはノーカン。自らチケットを取って行ったのは初めてでした。演者は誰もが知っている人間国宝野村万作氏とその息子野村萬斎氏。父子というと観阿弥世阿弥と重なる部分がありますね。私はそこで小舞も見たんですが、これが非常に良かった。演者の後ろの方で声を出してる人がいると思うんですが、この声を謡と言います。あと小鼓とかもいる。この謡と小鼓、舞が見事に調和して完全に呑まれました。これから小舞の方も勉強していきたいと思いますね。話を戻しますが、風姿花伝の中で「花」という言葉が多用されています。これは演者の誇る演技力や雰囲気の優雅さ、美しさなどを指す言葉です。この花は植物の花と同じく、咲き誇るのは一時期だけであり、そう長くは持たないというのが観阿弥世阿弥の考え。思えば能舞台で演者が醸し出したあの雰囲気が「花」だったのか。そう言ってしまうとあの若い演者の魅力が右肩下りと聞こえてしまいますが、そういうことではなく。

能以外にも通用する大事なことを幾つも言ってるんですよこの本。いくらその道に通じていても、自分より下手な人間から学ぶものも必ずある、とか。在り来たりで教訓めいてますけどどの世界でも謙虚に生きる人間は大失敗を犯すこともないということなのか。そりゃそうだろうとも思うがこれをできる人は少ないんだろうなあ。

#32 『ゾウの時間 ネズミの時間』感想

本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間』 中公新書

こんにちは、「やし酒のみ」の感想をもう少し真面目に書けばよかったと後悔している辣油です。あれは流石に短すぎますよね。でも大目に見て下さい。仕方ないですよ、今まで幻想文学読んだことないんですから。免疫が全く無い状態でああまで物語の展開が読めないと脳みそがびっくりするんです。小説は普通情景を思い浮かべながら読み進めると思うんですけど、”体がバラバラになって頭蓋骨だけになった紳士”なんて考えたことありますか?完全に「は?」でした。しかしエイモス・チュツオーラ氏の作品はまだ長編が残っているので心して読まねば途中断念という辛い結果を招くことになる。嫌だなあ。読書を途中で断念するときって本当悔しくないですか。自分は真面目に本を読み出してから一度だけ断念したことがありました。アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」です。確か角川書店だったと思いますが、翻訳文っぽさが強すぎる。英語に慣れてない生徒の英文和訳答案みたいなガチガチのやつです。(もうちょっと何とかしてくれよ…)。角川のおエロいさんがこのブログを読んでくれることを祈るばかりです。ところで生意気にもブログのデザインを変えてみました。なんか良いデザインが無いか探してたら良さそうなものがあったので早速採用。見にくいと思ったら適当にまた変えます。

今までの記事からしてバリバリ文系の自分がこんな本を読むなんて驚きました?驚いたでしょう、高校時代の課題図書で買わされたまま積読になってました。ここで発掘されてよかったね。生物分野は、殆ど興味無い自然科学の中ではまだ好きな方かもしれません。一番好きなのは何てったって天文分野ですよ。天文分野で一番好きな言葉はこれですかね。

「好きな言葉は、ダークマターです。」

湘南美容外科クリニックかよ。完全に厨二です。しかもダークマター全然興味ないですし。本当に好きな言葉は連星パルサーです。そういえば過去に「宇宙論入門」という本を読みましたが、てんで分かりませんでした。最近読んだ構造主義の本ぐらい何言ってるのか分からなかった。哲学に近い分野って本当頭使いますね。有名な哲学者の提唱したこととかを見ると思いますが、あの方々完全に雲の上ですよね。人間界と離れすぎだろ。

本題です。この本は題名の通り生物のサイズに主眼が置かれています。知り合い曰く少しは新聞とかでも紹介されてたらしい。最初に書かれてたことを紹介すると最初だけしか読んでないんじゃないかって思いますけど、安心してください。そんな夏休み後半に無理やり親から本読まされてる小学生みたいなことしてませんよ。生物学には「島の規則」と呼ばれる規則性があるらしい。海によって大陸と隔てられた島々では大陸での大きな生物種がサイズダウンし、大陸での小さな生物種がサイズアップするというもの。面白そうでなかなかそそりますネ。自分の貧弱なオツムにはこれくらいしか残ってませんが結構面白い本でした。生物読み物に最適だと思います(なんだこの感想)。

#31 『はじめての構造主義』感想

橋爪大三郎『はじめての構造主義』 講談社現代新書

最近画像をアップするのが億劫に感じてきたので著者・出版社を明記することにしました。題名が被ってる書物なんて世の中幾らでもありそうですからどの本を読んだかはきちんとアクセスできた方が良いと思いました。これからはそうします。

この本は確か高校1年か2年の時に課題図書として買わされたものですが、一通り読んで思いました。「難しすぎるだろ」。高校生時代の自分なんてまだまだペーペーですし、何故私の母校は生徒に構造主義を学ばせようと思ったんだろうか。学ぶまで行かなくとも、触れるだけでも違うといった感じなんでしょうか。当時の私には触ることすら難しいんではなかろうか。でも中学の頃から文化人類学とか民俗学みたいなものには興味があったので時差はあれど、今読めているなら幸せです。

皆さんがどうか分からないんですが、きちんと勉強したい本が縦書き(新書とか文庫とか)だと結構キツイと感じるのは僕だけでしょうか。この本にも途中図とか数式とか出てきますが本当縦書きだと見づらい。文句じゃないですからね、文句じゃない。何でもいいですが、私がこの本を読み直してるのには訳があります。Levi Straussの「悲しき熱帯」を読むための前哨戦なのです。これもいつ買ったのかよく覚えてませんが確実に一年以上積まれたままになっている。そんな感じです。

この本は小説でもなんでもないので正直感想も何もないんですが、部族社会における婚姻のタブーの部分は結構面白かったです。ここでは詳しいことは説明しませんが、カリエラ型の婚姻とかは本当よく出来ているなあと思いました。あとはやっぱり数学の強い人間に生まれたかったなあと痛感しましたね。ひとえに努力を怠っているだけかもしれませんが、ここには努力を怠っているという事実しかないので。グダグダですがこの程度しか書くことが無い。それではさようなら~。