辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#12 『阿Q正伝』感想

f:id:sykykhgou:20160330102535j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

お前は一冊の本から何個ブログ記事書けば気が済むんだ、と当ブログ読者集合φから指摘されてしまいそうですが私にそんなことは関係ない。短い小説だと記事数稼げるんですよこれ、ね。Twitterでの告知を辞めてからというものアクセス数がめっきり減ってますが私は自己顕示欲というより自己満足や自らの思考の整理の為にブログを書く方が大きいので辞めるつもりは毛頭無い。ということで今回は「阿Q正伝」ですね。ずっと読みたかったんですよ。しかし良い時代になりましたよね。昔なんて知識は一部の層の独占物だったわけで、現代みたいに気軽に手に入れることは到底できなかったでしょう。いやぁ便利だ便利。読みたいときに買えるってのがいいですよね(親の脛に感謝)。それでは本題に。

この作品の大体の流れとして、阿Qという男の一生を追っていく形を取っています。この阿Qというのは、常に自分が他よりも上であるように考えようとする性質があり多少の曲者なのですが、実際は何もできずに他人からバカにされ続けている、というもの。彼は過去に、一度だけ賭けで大勝ちして得た銀貨も寝ている間に全て消えていたりと中々悲惨なのですが、それも阿Qの事なので可笑しく書かれている。なかなかコメディアンである。しかし読んだ人なら自分だけでないと思うが、その死に様だけは少し寂しさが残る。舞台となっている集落の未荘では、話の後半、革命軍の反乱が及ぶことを恐れるようになる。そこで阿Qは自分も革命家に加担することで未荘内での畏怖を得ようとするのだが結局革命軍には加担させてもらえなかった。しかし先程の阿Qの行動が全ての間違いであり、彼は政府側に捉えられてしまい、処刑されてしまう。結果として革命軍に加担できていないにも関わらず。こんなにも可哀想で惨めな死があるのか。しかも死ぬ間際、自分が文盲だということまで処刑人の側に知れてしまうことになる。生きている間に散々威張り散らしていたが結局彼は何もしていなかったし、できていなかった。それが最後の虚栄心、革命軍に加担することで人の畏怖の念を得たいと思ってしまったばかりに殺されることになったのだ。しかも本当の革命軍の人達が捉えられたのかについては触れられてもいない。
それでも彼が死ぬ間際に少し口ずさんだ「二十年すれば生まれ変わって男一匹」のフレーズは見物人を沸かせることができた。しかし今度は、それだけ口ずさんで死ぬと見物人から、あれしか歌えないのなら見に来るのも無駄であった、というような事を言われてしまう。阿Qはそこまでされなければならない人生だったのだろうか。私は否と思う。が、彼の積み重ねられた虚栄がそうさせたとも思える。真に難しいところである。
兎も角この作品は私の心に一つ感動を与えることとなった。良い作品だった。

#11 『故郷』感想

f:id:sykykhgou:20160330093128j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

これは非常に有名な作品ではないでしょうか。魯迅「故郷」です。まず中学校の教科書に載っていると思いますが、当時は読んでも何も思いませんでしたね。最後の部分も意味ありげだということしか分からない。そんな感じでしたが先程読んでやっと意味を理解することができました。そもそもこの作品を読むに当たっては確実に多少の儒教知識と魯迅の持つ考えを知っていなければ理解出来ないはずなのに何故中学過程の教科書に載せるのか。地上に道はない、人が通らなければ道にはならない、とかペーペーのガキに分かるはずがありませんよね。私もペーペーのガキだったわけです。

やはりこの作品にも魯迅の根底、"儒教社会あるいは古き中国への反発"がある訳ですよね。最後の部分や豆腐屋の楊おばさんなどの描写を見ても完全に悪意しかない、といった感じを受けます。自分が幼い頃居た故郷へは憧れよりも失望の方が大きいでしょう。昔は思想とかそんなものは無くてただ無邪気なだけだったから閏土とも隔てを感じなかったが今は大人になってしまい様々な隔て、壁を感じるようになってしまった。またそれは身分的な隔てだけではなく、香炉や燭台といった、魯迅儒教の遺構としか捉えないようなものにも表れており、ますます失望を加速させていることが分かります。近所の人も売ろうと思っていた家財道具を勝手に持っていってしまう、というのもあり憎いという感情も大きいのではないかと思っていたのですが、ここは感覚の差か作中の魯迅にそこまでの激しさは見受けられませんでした。しかし描かれ方が酷いなぁ…。
人が通らなければ道ができない、というのは儒教に疑問を抱く人間が多くならなければこれからの中国の進むべき道はない、と古臭い習慣に覆われた息苦しい自分の故郷を見て感じたのでしょう。

#10 『明日』感想

f:id:sykykhgou:20160329134141j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

今回も魯迅「明日」という作品です。この作品では病気になってしまった宝児という赤子とその母親の単四嫂子の所謂シングルマザー家庭の話が主になっています。この家庭というのはかなり生活に苦しい状態であり、母親は常に家で糸を紡いでいるのですが、このような辛い状況の中で宝児が病になってしまうのです。そして病院に連れて行き薬を飲ませるも、敢え無く帰らぬ人となってしまう、というものです。昨日から4作品程読んでいますが魯迅の作品には必ずと言って良い程薬が出てきて、且つ必ずと言って良い程効かないんですよね。今までの作品が作られた背景から言ってまずこの効かない薬というのは儒教を象徴しているのでしょう。そしてそれによって助からない人の命。魯迅儒教に対しどのような、どの程度の憤りを感じていたのだろうか。

この作品にもそうだが、魯迅作品によく出てくる茴香豆という食べ物が気になった。f:id:sykykhgou:20160329134101j:imageこれが茴香豆らしい。またこの作品の舞台の村である魯鎮はここにある。f:id:sykykhgou:20160329134242p:image以前読んだ「栽培植物と農耕の起源」にも記述があったが、この辺りは照葉樹林文化圏であるので、豆食がある程度発達しているのだろう。これよりも南に行くと段々芋を核とする根菜農耕文化センターがある。横道にそれたが個人的には非常に楽しい。
この作品を読む中で一つの作品がどうしても頭から離れない。それは谷崎潤一郎「母を恋うる記」である。作品の首尾を貫くうら寂しさ、読んだ後に残る早朝の様な静寂、青のイメージ、舞台になった場所、情景が違うのにここまで似るのか。まだ似ている点はある。それは死を以って母親と息子が隔てられるというもの。「母を恋うる記」では母の死、「明日」では息子の死を以ってしている。しかし完全に似ているわけではなく、前者の谷崎作品では静けさのある死への悲しみ、後者の魯迅作品では自分の核になり得る様な大切なものを失った慟哭が描かれていよう。悲しい雰囲気でこの文章を締めるのは自分が辛いので最後は滑稽な話題で終わりたい。
先程の両者は若干違うとはいえ、私の尊敬している先生が以前仰っていた、人間の想像力の乏しさも感じられると思った。個人的には感慨深い作品になった。

#9 『薬』感想

f:id:sykykhgou:20160329113844j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

今回も魯迅の作品です。これは全く有名ではないですよね。しかし魯迅の作品というだけあって「狂人日記」と根源にあるものは同じです。儒教社会に対する憤り、反発ということですね。おおまかなストーリーとしては、肺病(結核か?)にかかった息子を助けるために大枚叩いて迷信じみた薬を買い、飲ませるも効果無く死んでしまうというものです。この迷信じみた薬ってのは人血饅頭なんですけど、自分としては儒教云々よりもこっちの方が迷信のあり方も中国らしくてファンタジーを感じてしまいましたね。この作品の主人公的存在となっている息子の父親は店をやっているんですが、この店に来る人達の会話の中にも魯迅の嫌悪感が感じられてしまうようです。たわいも無い世間話、どこの息子が処刑された、自分の外にある事に対して好奇の目で見る事しかしない愚かな民。個人よりも集団で群れることを大事にする、一昔前の田舎者の様なもの、私もここは非常に共感できます。

にしても一種うら寂しいようなものが残りますね。

#8 『狂人日記』感想

f:id:sykykhgou:20160328200529j:image魯迅阿Q正伝狂人日記』 岩波文庫

前回の更新遅れを取り戻すが如く更新の早い今回は魯迅の「狂人日記」です。魯迅といえば「漢字が滅びなければ中国は滅ぶ」という言葉を残した話が有名ですがその意味を私が理解するにはまだ早そうですね。歴史上日本に最も影響を及ぼしたと言っても過言ではない中国という国を一度くらい見てみたいものですナァ。ということで本題に入ります。

まず大体の感想から言うと、非常に面白かったです。内容は当にタイトル通りで、ストーリーと言うよりかは、精神障害を抱えた人が記した日記という形をとっています。被害妄想を抱く方向が、自分が食人の餌食になろうとしているという謎の方向に向かっているのが本当に面白かったですね。行動が完全にたまに居るこういう人と、それを好奇の目で見る周囲の関係に陥ってて益々被害妄想が膨らんでいくんですね。この作品は魯迅の初期のものらしいですがこういう愉快な作品を書けるというのは真の才能なんではなかろうかと思いますね。
読んだだけではこの小説が何を言わんとしているのかよく分からなかったので軽く調べました。儒教社会の打破を目指す中での葛藤なんですかね。儒教を嫌う一方で自分もその儒教を構成するものの一つであるということに対する葛藤。ここだけ見ると難しくないですけど、読んでこの内容が分かるかってのは確実にNoですね。狂婦が自らの子供の肉を喰らったとかの事件を受けて、社会が賛成的な態度を示したことも当時の魯迅の運動を突き動かしたものなんでしょう。中国には中国の葛藤があるんですなぁ。もう少し読んでいきたいですね。
 
と、書き終わろうと読み返してて思ったんですけど、作品中において儒教を象徴しているものが食人(当時の事件も踏まえて)という考えに至ることはできるのでそれに対して狂人が日記を書き反発していくという形式なのは理解できますね。狂人は魯迅の心の代弁者ととして書かれているはずであり、作品末の「せめて子供を……」によって自身に巣食う葛藤を表しているのでしょう。

#7 『栽培植物と農耕の起源』感想

f:id:sykykhgou:20160324015323j:image中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』 岩波新書

殆どいないに等しい当ブログ読者の皆さん、更新の大幅な遅れが観測されたと思いますがそれは幻ですよ幻。気にしないでくださいね。なんか新書になった途端遅くなったんですよね。読むのが。今回は多少学術系の話題でもあるので多分読むスピードと頭の働きが反比例したんでしょう。許してください。

ところで本題に入ります。私は科目でいうと地理が凄い好きなんですね、得意じゃなくて、好きね、これ、重要。今回は農業関係ということで自分が踏み込みたかった領域の一部な訳です。内容の大体としては根菜農耕文化やサバナ農耕文化などで見られる作物の起源などについてですね。少し脱線しますがこの本を読んでる期間にアメ横に行ったんですよ私。そしたら「西米」という食材が売っていたので、グー○ルで調べたんです。そしたらその西米というのは今回の本に載っていたサゴヤシという樹内にデンプンを溜め込む木を加工した物だったんですね。しかもそれによって作られる食料がタピオカっていうもんだから驚きの連続でしたよ私。アメ横センタービル地下でまさかの3つの点が繋がって線になったんですね。一人で携帯弄りながらニヤついてましたけど。
こういう感じの本て知識を得て考えるだけだから感想とか「ああ、知れて良かったな」程度しかないと思うんですよね。ということで今回はこの辺で。

#6 『偸盗』感想

芥川龍之介羅生門・鼻・芋粥・偸盗』 岩波文庫

今回は芥川龍之介の「偸盗」ですね。この本はどこかで読まされた気がするんですがあの時の自分の集中力では偸盗程度の作品すら読めなかったんですかね。にしても司馬遼太郎の作品は幾つか読んでいたので多少不思議です。情けないもんですが。取り敢えず途中まで読んで本棚で何年か放置されていたのでこの機会に私が拾いなおした訳です。取り敢えず小説はこれで読むのを一旦辞めようかと思っているのですが先日父親からの小説文庫本大量供給を受けてしまいました。自分の金で買わなくていいので誠にありがたい話ですがノルマが増えてしまいましたね。雑談はこの辺にしておきます。

今回の作品を読み進めていく中盤までの中で一つの考えが自分の中にありました。「これ、何をどう書きたいのか全く分からねえ」ということです。いや本当に分からないしなんだこれ、って感じでしたが最後の部分で一気に畳み掛けてくるように全体が見えてきました。生きることと死ぬことをよく対比させる様に描いている、ということがそれです。猪熊の爺の死に対する阿濃の赤子の生。戦いが終わった後の重い雰囲気が連想させる死のイメージに対して、赤子によって和んだ生のイメージ。これに加えて爺が見た夜の闇と灯火の火もこの対比に当てはまる様に感じました。数多く書かれていた対比の中でも最も鮮烈で皮肉な対比だったのはやはり阿濃が検非違使に語った沙金の死に際でしょうか。「主人がよく人を殺すのを見ましたから、その死骸も私には、怖くも何ともなかったのでございます。」白痴の者が語っているというのも含めてなんという皮肉。まさか自分のしてきたことが自分の死も交えた形で語られようとは沙金は夢にも思っていなかったでしょう。
当初太郎と次郎が沙金を巡って互いに殺意を覚えていました。そして沙金も次郎と同じく太郎に対して殺意を覚えていました。しかし兄が弟の死にそうなのを見て全てが翻り、今まで兄弟が沙金に感じていた性の魅力を覆したというのは一種美談的な要素を含んでいるのでしょうか。また猪熊の婆が爺に見せた命懸けの愛も確実に意味を持っているはずなのですが考えても分かりそうにないですね。婆の愛もただ虚しいものに終わってしまった、というだけではないことを信じたいです。それだけなはずは勿論ありませんが。