辣油の四方山記

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#19 徒然草に見る有職故実及び文化の伝播について

1.はじめに
 本論文は1章で概要説明、2章で題名にもある徒然草に記述のある有職故実や大衆の文化についての考察、3章で総括としてのまとめを行っていく。
 有職故実とは平安期前後頃から起こった学問であり、朝廷における貴族、皇族がどのように振る舞い、どのような服装、調度品を以てして年中行事などに臨むべきかを研究するものである。一般的に有職の道では旧儀、先例を非常に重んじる傾向があるように私は感じる。これは昔の中国であっても、日本の古典、和歌の技法である本歌取りにもみられることであるから先例を重んじるというのは昔から東アジアに根付いていた文化なのだと思う。有職故実の及ぶ範囲は一見小さいように思われるかもしれないが、髪型から布の織り方まで非常に多岐に渡っている。
 徒然草の作者である吉田兼好の家柄は農民などといった庶民というよりかは、朝廷で過ごしている貴族寄りであるのでそういう世界の話が多いように感じるが実は読んでみると庶民の文化に関する記述も少なくない。有職のような貴族文化も、このような庶民文化も一言に「文化」と言えるが、本論文では区別して考えていくことにしたいので注意されたい。

2.徒然草に見られる文化についての記録
Ⅰ.大衆文化に関する記述について
 第34段に「甲香」という物が出てくる。当時の武蔵国金沢の人々はこれを「へなたり」と呼んでいたという記述がある。「甲香」とは、煉香(ねりこう)の調合に用いる香料のことで、長螺や赤螺などの巻貝の蓋を用いるので、「貝甲」と呼ばれ、「甲」は当て字とされている。また「こうこう」や「あきのふた」などと赤螺の古名から来た異称もある。これらが練香として都の貴族に届くまでに原材料の貝を酒に漬け、灰で煎じ、さらに複雑な過程を経て精製されるとも言われている。そしてこの精製された甲香は粉末状のもので、これを他の香料と調合する。またこの段ではこの原材料となる貝の形が説明されてもいる。「ほら貝」は、巻貝のうちでも最大のものであり、殻の長さは約40センチにもなる。赤螺や長螺の約15センチの大きさに比べると、倍以上の大きさだ。この殻は度々吹奏用に用いられており、形状も大きさも当時の人もよく知られていたために、これを引き合いに出して、甲香に用いる貝の説明をしたのだと思われる。「細長にして出でたる」というのは、細長くなっていて突き出ている、という意味であるが、長螺などの口が細長くなっていないようであるからどういうことなのか釈然としないとされている。
 武蔵国金沢は現在の神奈川県横浜市金沢区金沢のことであり、もともとの読みは「かねざわ」であったのが「かなざわ」になったと言われている。
 「へなたり」は京の都からすれば未開の地に等しい坂東などでは「た」の音が濁っていたため「へなだり」と呼ばれていた。この語源は定かではないが小松操氏によると当時の『秘語(卑語)』であるらしいという説と、稲田利徳氏の「粗末な罇(銚子)」とする説があるらしい。いずれにしても、あまり良い印象の語感ではないという風に感じる。
 坂東では「へなだり」などと品のない言葉で呼ばれているものが加工されて都に入った途端に貴族たちは「いとをかし」と言っていたのだろう。また兼好自身も第44段などで度々、香の空だきの匂いについて良いという風に言っているのだ。私はこの段の面白味はここにあると思う。
第96段には「みなもめ」と呼ばれる草に関する記述がある。「くちばみ」に噛まれた時にはこれを傷口に塗ると良いというのだ。
「みなもめ」というのは現在ヤブタバコという名前が付けられているキク科の越年草で、山野に自生し、夏から秋にかけて黄色い花を咲かせる。生薬名・漢名を天名精(てんめいせい)鶴虱(かくしつ)といい、果実を採集したものを鶴虱(かくしつ)、葉を採集し乾燥したものを天名精といったらしい。この鶴虱は條虫駆除に煎用するらしいのだが、徒然草にあるように「葉をもんで塗る」といった用法を見つけることが出来なかったのでいささか残念ではある。
 「くちばみ」はマムシのことであると考えられている。「口食み(くちはみ)」が語源であると私は思うのだが、「食み虫」の音が転じて「マムシ」になったという説があるので私の考えは正しいのかもしれない。また蛇は「くちなわ」とも呼ばれているがこれは「口が付いた縄」の意ではなく、「朽ちた縄」に似ているからだそうだ。
 当時、山里に草庵を構えて隠遁者として生活することはなにかと模範的である、こうあるべきだと言われることが多いが、そう簡単に言えるほど生ぬるい生活ではないと思う。この段にもあるように「くちばみ」や蜂などの害虫に刺されることも少なくなかったはずだ。ここで兼好がこのような実用的な記述をしているのは暗に隠遁生活、自然の厳しさを伝えようとしているのではないかと私には思われる。
 第119段で兼好は鰹に関する非常に興味深い話を書いている。徒然草が書かれた当時はもう鰹は朝廷にも上がるほどの馳走として扱われているが、一昔前では貴族の料理どころか賤しい身分の人々にすら食べられることは少なかった、というのだ。これは一体どういうことなのか。古くは大和朝廷が、鰹の干物など加工品の献納を課していたという記録があるらしい。「かつを」の語源は「堅魚」(かたうを)からきているようであり、その名にある通り鰹節にするのが一般的であったと考えられている。この段でいう「食べる」というのは生で食べることを指したのだろう。つまり、鰹は昔から朝廷への献上品として珍重され、地方の有力者でさえ口にすることができないということだ。しかし、兼好が生きた時代(鎌倉末期から南北朝)は、鎌倉の上流社会の人々も口にするようになっていたことをこの段では語られている。「頭は、下部も食はず」を、鎌倉の庶民でさえも忌避して捨てたとして、この魚(鰹)は余程嫌われていた、という解釈がなされる。しかし、兼好の論は、鰹は朝廷に献上する品である以上、切り取った頭といえども、庶民は口にすることができなかったことを物語っており、上に記したように、朝廷への献上品である故、「嫌われていた」はずはない。これは「身分」が原因であるという説がある。各々の身分にはわきまえるべき分別があり、その分別をわきまえないことはタブーとされていたのだと思う。当時の、現代のように身分に関して決して寛容でない社会の考えの一端を魚一匹から読み取ることができる非常に面白い一段であるように感じる。
Ⅱ.有職故実に関する記述について
 第48段は解釈の仕方が難しいため、いくつかの説がある。藤原光親卿が最勝講という行事の奉行を務めていた時、後鳥羽上皇から出された食膳を食べ終わった後に御簾の中へ入れ、片付けもせず帰った。これに対して院に仕える女房達は批判したが後鳥羽院は「有職のふるまひ、やんごとなき事なり」と言って繰り返し感心していたという話だ。
 光親卿は後鳥羽院から最勝講奉行を任じられており、また当時の後鳥羽院の寵臣である。寵臣ではあるものの御簾の中に片付けずに食膳を放置しておくことは無礼なように思われるが、これのどこが有職の道に適っているのだろうか。まず、この「御簾」がどこに掛かっている御簾であるのか。上皇の御簾というのはいくら有職故実といえども失礼に値するだろうということで疑わしいと考えられている。しかし上皇に「有り難く頂戴した」という旨のことを伝えるため敢えて上皇の御簾に入れたという解釈もある。そして光親卿はこの時最勝講奉行を務めていたために自ら御膳を奥に持っていって女房に渡すということはすべきではないので有職故実に適っているというのであろうか。
 他の解釈としても後鳥羽院が有職に通じていないため、など上皇側の失態とする解釈もあるようだが僅かではあるものの本を読む限り、私はそのようには感じない。この上皇は歴代の中でも特にその能力が多岐に渡って優れていたと思える節が多くあるからだ。
 第95段は徒然草の数多い記述の中でも自分にとって特に興味深いものだ。文箱とは書状、願文などを入れて持ち運ぶのに手持ちの利く細長い箱のことだ。「ふみばこ」「状箱」ともいい、和名類聚抄には「ふみはこ」といい、書物を入れて負い運ぶ箱のことを言っている。また源氏物語の若菜上に「沈のふばこ」とあり、香木づくりの高価な特色のある箱に願文を封じるとある。近世には手紙や短冊などを入れる様々な形のものができ、それが大名の嫁入り調度に加えられていた。
話を戻すと、箱に緒を付けるのだが、そのつける方向によって箱の役割が変わってくるという。これは有職故実の観点からどちらでも差支えはないものの、右に緒をつけると文箱、左側に緒をつけると手箱になるというのだ。「くりかた」は箱の身に付いている紐を通すための環で、もとは「刳り方」(「刳る」は「えぐる」)から来ており、刀の鞘などの場合などにもいう。私はこれに関して、左右とは箱の何を基準にして言っているのか、「結び」という観点から、後の室町時代に成立する「水引」などとの関連性はあるのか、など疑問に感じた。そこで歴史学者で文学博士の本郷和人教授と、工学博士で日本家具について造旨が深い小泉和子教授にお聞きしたが、過去の文献にもこのような稀な例は少ないらしく、解決することはできなかった。
Ⅲ.庶民から宮中へと移った文化の稀有な例
 当時の身分に対する意識は庶民であるにせよ貴族であるにせよ現代のそれとは比べ物にならないくらいに重いものだったと思う。故にこの二つの文化はある程度の接点はあったにせよ殆ど分けられて成熟していったはずだ。概して、宮中の文化が下層階級に移っていくものであるが、ここで挙げる例はその逆である。ここではこれらの文化の交流点ともいうべき事柄に関する記述について触れていく。
第61段に宮中での出産の際に行われるまじないについて書かれている。身分の高い人間が子を産む時に胞衣(腹中で胎児を包んでいる膜及び胎盤)が滞ることがあるらしい。そういった時に甑(米を蒸す器具)を屋根の上から落とすというのだ。
 分娩後に胞衣が体内から排出されることを「後産(あとざん)」という。その後産が速やかに行われない時のことを「とどこほる」といったのだ。第61段の記述を見る限りこの「甑落とし」は御産の際は毎回行われると考えられているようだが、胞衣が後に残っている時に行うまじないらしい。御産の時に甑を落とす習俗は、平安末期に始まったといわれている。『平家物語』によると、皇子が誕生すれば南へ、皇女が誕生すれば北へ落とす。これも「君子南面。」に由来しているのだろうか。このまじないに使われる甑は「大原の里」で作られたものを使うらしいが、これは京都左京区の大原が当てられることがあるが、京都右京区の大原野の方が正しいという。これは、「山槐記」に、「件の甑は、大原の社にある」という記述があるが、この「社」に該当しそうなものが大原には見当たらず、大原野神社と思われるからだと言われている。大原の甑が用いられたのは、その地名が「大腹」に通じるためとも伝えられており、また「甑」は「子敷き」や「腰気」に通じ、胞衣の機能と関連がありそうだとする説が有力である。

3.まとめ
 本論文で私は徒然草から鎌倉期前後の民衆、宮中の文化がどのようなものであったのかを読み取り、紹介してきた。昔であれば当たり前のことであるが、日本の全国民の識字率は現代と比べて驚くほど低い。そのため残っている文献といえば当時の上流階級が書いたもののみである。「賤し」が転じて「あやし」となってしまう程に貴族にとって下層階級の暮らしぶりは謎に包まれていたに違いない。よって、当時のそういった身分の暮らしを明らかにしていくことは非常に難しいことであるように思う。後世まで何か記録を残すためにはどうしても一定の教養が必要となってくる。しかし民衆に教養はなかった。身分ごとにほぼ完全に隔離された社会の中で、貴族並の教養を持ちながら平民の生活を営む「遁世者」の立場にいた吉田兼好に課せられた使命は非常に大きいように感じるのだ。
身分の高い人間のみの記録を残していく時代はもう古い。最近では一般市民の記録を残そうという運動があると聞いたことがある。これは識字率の高い現代社会であるからこそなせる業である。1000年前の民衆を今知ることはできないが、1000年後の民衆がその1000年前の我々を知ることができればいいと思う。

〈参考文献〉
徒然草全釈/松尾聡 著     清水書院
有職故実大辞典/鈴木敬三 著  吉川弘文館
有職故実図典/鈴木敬三 著   吉川弘文館