辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#47 『浮世の画家』感想

カズオ・イシグロ浮世の画家早川書房

はい、これを読みました。元々原作を読まれていた方がどう思ったのかは分かりませんが、先日やっていたNHKのドラマは大変良かったです。少なくとも私はそう思いました。主人公の小野は渡辺謙が演じており、読んでいる最中も小野の発言は全て渡辺謙の声で聞こえてました。ドラマがいくら良かったとはいえここまで影響があると流石に…という感じですね。

この作品の主人公である小野益次は戦前、日本の戦意高揚に寄与するような絵を描き評価を得た画家。舞台は戦後3,4年、戦後になった途端社会から自分への風当たりが強くなり色々な所で非難するような言動に出会っている。小野への風当たりが強いのは社会だけではなく、家族からも強くなっている。長女の節子は素一という旦那の元へ嫁いでおり、次女の紀子の縁談はこれからというところ。そして長男の賢治は戦死した。そういう状況の中で小野は次女の縁談を進めていたのだが、急に破談となり話が流れてしまう。その後2人の娘からは常に何かを示唆するような言動を受け、小野自身、自分が過去にしたことは全て過ちだったのかという考えを巡らしていく。かつては才覚ある若者として工房で輸出用の絵を描いたり森山画伯の弟子として自らの腕を磨いたりしていた。それが松田という男と出会い、画家も国のために尽くすべきではないのか、と考えるようになる。この辺りで師匠の森山とは決別し、プロパガンダ画家としてその名を大いに上げ、その当時の社会的風潮から大いに評価を得ることとなった。これが小野の過去である。しかし先にも触れた通り、小野への風当たりは戦後踵を返したように強くなり、多くの若者を戦地に送り死なせたにもかかわらず現在のうのうと暮らしている犯罪者の一人として数えられることとなる。そんな中での縁談の破談。次の縁談の相手は斎藤博士という著名な美術評論家の長男、太郎であった。この家との会食の席での小野の発言を以下に引用する。

我が国に生じたあの恐ろしい事態については、わたしのような者どもに責任があると言う人々がいます。わたし自身に関する限り、多くの過ちを犯したことを率直に認めます。わたしが行ったことの多くが、究極的には我が国にとって有害であったことを、また、国民に対して筆舌に尽くしがたい苦難をもたらした一連の社会的影響力にわたしも加担していたことを、否定いたしません。そのことをはっきり認めます。申し上げておきますが、斎藤先生、わたしはこうしたことを事実として極めて率直に認めております(p.185)

この発言以降縁談はトントン拍子に進み、次女は結婚することとなった。

しかし作中の至る所に見られるが、小野は当時、確かな信念を持ってその道を突き進んでいたということも自ら認めている。この過去についての社会との認識の齟齬とどう向き合っていくのか、というのも一つ作品を見る上でも面白い点だと思う。

#46 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ

マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫

 1.はじめに

本記事ではマックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)の中で著者がどのようにプロテスタンティズムと資本主義の二者の関連を見つけ、どのように結論づけたのかということを読み解いていく。理解にあたって、著書の中でも語られている通り、マックス・ヴェーバーは「私は実際生活に対するそれらの影響を問題としている。[1]」というように著者が論述したいのは教義ではなく、あくまで経済活動への影響であり実際生活そのものであるという点を踏まえたい。

2.本論

 2-1.プロテスタンティズムと資本主義の成立について

 ヴェーバーは本書の中で、問いの答えを導くための極めて重要な例に、資本主義社会において高級労働(高所得労働とも取ることができるだろう)に就いている人間にはプロテスタントの数が極めて多いことを挙げている。この理由として大学進学資格者におけるプロテスタントの数がカトリック信徒の数よりもはるかに大きいという点に着目し、この点についてプロテスタントの収入の多さがそのまま反映されている点は否定できないとした。カトリック信徒の子息の教育には、大学進学者が極めて少ない(これは前述の理由に依るところが多いように思われる。)、実業学校など営利向き学校に通う者が少なく、教養課程中心の学校を好む、など幾つかの特徴が見られている[2]。このようにカトリックと対極に位置するように、プロテスタントの場合は宗教的生活規則と事業精神の高度な発達が結びついている。

 周知の事実であるが、プロテスタントは1517年に当時の腐敗したカトリック教会から分離する形で誕生した。プロテスタントの誕生にはカトリック的伝統主義への反抗としての側面も勿論含まれていた。この“反抗”が全体としてどのような形をとっているのかに少し着目していきたい。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』18ページの実に興味部深い文章を抜粋する。「じじつ、当時経済的発展が進んでいた諸地方の宗教改革者たちが熱心に非難したのは人々の生活に対する宗教と教会の支配が多すぎるということではなくて、むしろそれが少なすぎるということだった。」。これは一見異常な事態と思われるかもしれないが、このような考えを持った人々がのちにプロテスタントとなり、資本主義社会における支配階層(この表現は適切ではないかもしれない)にもなり、資本主義の画期においてはその制度を推進することとなった点には注視していなければならない。

 次に、宗教改革後のプロテスタントを支配していた道徳がどのようなものであったのか考えていく。考えるにあたって、「宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ、ということだ。[3]」という一文に注目したい。従来のカトリック教会による民衆への支配には、形式的であり日常生活に及ぼす影響が極めて少ない、といった特徴がある。一方プロテスタントによる民衆への支配は、あらゆる点でこれの対極を取っていくように家庭・公的生活の全体を縛り、厳格な規律を要求するものであった。

 2-2.Beruf「天職」について

 プロテスタンティズムと資本主義の関係を考えていくにあたって外せない点がもう一つある。”Beruf”である。これは、マルティン・ルッターが旧約聖書外典「ベン・シラの知恵」を翻訳した際に生まれた特有の語である、とヴェーバーは主張している[4]。つまりルッターが解釈(「発見」という言葉を使っても差し支えない)し、作り出したプロテスタンティズム特有の考え方といえる。この”Beruf”という単語には梶山力の翻訳以来「職業」という日本語が充てられていたが、1989年に岩波文庫から出版された大塚久雄訳では「天職」という日本語が充てられるようになった[5]という裏話がある。私はこの「天職」という語の方がよりプロテスタンティズムの核に迫るものであると考えている。

本書で扱われている問題に深くかかわっているテーマに、「禁欲」がある。経済発展のためには禁欲であるよりも強欲である方が重要であると思うかもしれない。しかし、ヴェーバーは中国人商人と対比させながらプロテスタントの「禁欲」が持っている可能性について言及している。かつて中国という国はヨーロッパ諸国とは異なり、商売や金儲けを卑しい物とする風潮が皆無であったという。そういう環境にあって、中国の商人達は憚ることなく商売の話ができた。商人たちのモチベーションは十分であるにもかかわらず、中国で資本主義が成立することはなかった。資本主義発生の過程を見て取ることができるのはプロテスタントを信奉していた地域なのである。この話の続きは後で触れることとする。

禁欲には主に二種類ある。キリスト教的禁欲と世俗内的禁欲である。キリスト教的禁欲というのは修道院の中で聖職者たちによって実践された禁欲であり、世俗内的禁欲というのは聖職者のみならず民衆レベルで実践され、民衆の日常生活に浸透し、習慣化した禁欲である。ここで、2-1で引用した「宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ」という一文を思い出してみたい。キリスト教的禁欲(修道院における禁欲)は宗教改革以前の伝統主義、すなわちカトリック教会による支配と解釈することが可能であり、世俗内的禁欲は宗教改革以後の打倒伝統主義、すなわちプロテスタントによる支配と解釈することが可能ではなかろうか。これには、支配が別の支配に取って代わられることの他にも、資本主義の推進において非常に重要な役割を果たしている。それは、「禁欲」を閉ざされた空間(修道院)から開かれた空間(民衆)へ開放したという役割である。Beruf「天職」という概念は世俗の職業及びそれに従事している多くの民衆を対象としている。こうして民衆たちに習慣レベルで浸透していった禁欲は、民衆に、清廉な日常生活を送ることに意味を見出すきっかけを与えた。勿論のことであるが、この清廉な日常生活の中には習慣として染みついた節約や倹約なども含まれていた。

   プロテスタンティズムにおける禁欲は意図せずして二方向に進んでしまった。本流というべき一つ目は、敬虔な信徒を多く生み出したこと。そして支流というべき二つ目は、節約の副産物として富を生み出してしまったことである。貪欲であるため金儲けをする、などといった小さなスケールの話ではなく、日々の宗教的生活や信徒としての敬虔さが目先の貪欲を抑え、(何度も言っているが)結果としてより大きな富の獲得へとつながってしまったということは実に興味深い。資本主義社会においては、自分の貪欲さをコントロールすることが特に肝要であり、この制御能力はプロテスタントの日常生活の中でこそ習得することが可能であったのだ。

 2-3.結果としての「富」について

 2-1で述べたように、プロテスタントの方がいわゆる商売上手で、職人としても優秀な人材が多いということは古くから言われてきた。それには前述したようなBeruf「天職」の思想に依るところが大きいが、それだけではない。カトリックプロテスタントの比較というのはしばしば行われており、その比較の中でしばしば取り上げられてきた例にはこのようなものがある。カトリックは非現世的・禁欲的であるからこそ現世の財貨には無関心なのであり、プロテスタントは禁欲的ではないが、逆に現世的であるからこそ現世の財貨を求める、というものだ[6]。この構図は勿論誤ったものであるが、カトリックプロテスタントの双方が好んで用いた論理であるために事実を曲解させているという。カトリックは、上にあげた論理を使って「我々は禁欲的であるからこそ現世の財貨に無関心なのだ。」と経済力の無さに言い訳をし、一方プロテスタントは「我々は禁欲的ではないが経済力を持っている。」とカトリックに対して当てつけのような皮肉を言う。

   日常生活の中で禁欲を実践する方法の一つに「節約」が挙げられることは2-2で触れた。プロテスタントにおいてこの節約は徹底的に行われるべきものであり、その根底には、より質素な生活を営むべきであるという禁欲の精神があるように思う。この徹底的な節約のために厳密に帳簿を付けていく文化が発達したことについては、大いに頷くことができる。簿記の発達は商業のみならず他の諸産業においても非常に有用なものであり、従来の取引に変化をもたらし、ある部分では洗練し、ある部分では複雑化させた。ここに、簿記の発達が資本主義社会の発達を促すという一連の流れを見て取ることができよう。

最後に、絶対に留意しておきたい重要なことがある。それは、プロテスタンティズムにおけるエートス(倫理・道徳)は決して富の蓄積を目指したのではないという点だ。先にも述べたように、簿記の技術はプロテスタント信徒達が質素で清廉な生活をし、世俗内的禁欲を指向するために発達したのであり、決して資本主義社会の発達を目指して行われたものではない。プロテスタント信徒達による敬虔な信仰の副産物として、富が生まれたに過ぎないという点には留意しておかなければならない。

3.結論

 親が子に語る教訓として「真面目な人が成功する」系統の話はイソップ寓話を初め多く存在しているように思う。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がその一つであるとはとても言えないだろうが、経済(特に資本主義)の発達過程においてどのように「真面目な人が成功」したのかを極めて精緻に、理論立てて説明したのが本書であるように感じた。実際、不真面目とまではいかないが目先の貪欲に負けてしまう人間の元には成功は訪れなかった。そしてプロテスタントの影響とはいえ、自らの職業を「天職」として正面から向き合った人々は、初めから社会的経済的成功を目的としていなかったにせよ、成功を納めた。近代的資本主義の発生段階におけるアメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンの教えが幾つか挙げられていたが、彼の活躍した時代は宗教改革から200年以上が経過しており、このフランクリン時代のアメリカにプロテスタントがどれだけ色濃く残っていたかは想像に易い。たとえ宗教としてのプロテスタンティズムが廃れ、薄れていこうともプロテスタンティズムが持っていたエートスは時と場所に関係なく受け継がれ、新たな成功者を生み出していることと思う。

 

[1] マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫,1989.1,p.14

[2] M.ヴェーバー(1905),p.21

[3] M.ヴェーバー(1905),p.17

[4] M.ヴェーバー(1905),p.397

[5] M.ヴェーバー(1905),p.398

[6] M.ヴェーバー(1905),p.26

 

#45 『中国・新興国ネクサス』を読んだ

末廣昭,田島俊雄丸川知雄『中国語・新興国ネクサス』 東京大学出版会

2018年12月出版、一帯一路構想に関するほぼ最新、最先端の研究が知れると言っても過言ではないのだと思う。私は(何故か)一帯一路構想の行く末を見守っているので日経などでもその関連記事ばかり読んでいたりするのだが、今回もその一環として読んだ。

今回は色々と考えたことがあるがそれら全てを書いている余裕は無いので申し訳ありませんが手短に。

一帯一路構想においては「winwinの関係」を築き周辺国(沿線国)と共に成長していくというのが大々的に掲げられているのだが、その実はどうなのだろうかと蓋を開けてみるのが本書の内容。六大経済回廊構想や輸入割当制など様々な話があった。その中で中国が資源を手に入れるための手段となってしまっている現状や、どうしても周辺国との貿易が垂直貿易へ陥ってしまうリスクについて非常によく分かった。中国国内におけるパーム油などをはじめとする食糧供給などの話も面白かったが、個人的に惹かれるのはやはり米中対立と人民元の今後についてである。この辺についての詳細は割愛するが、私が最近疑問に感じていた部分についてかなり霧が晴れたと思っている。

今回の記事は流石に短すぎるけど許して下さい。許してくれますね。

#44 『タコの心身問題』感想

ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』 みすず書房

この本が出版された時からそうですが、人気の熱が冷めやらないようで最近もかなり話題になっているようですね。トークセッションなどもあったようだし。この本では、人間や犬が持っている心や意識といったものとは全く別の道を辿って進化してきた心・意識にスポットが当てられている。よくある進化の木の図において、現在存在している全ての生物は最末端に位置していると言える訳ですが、「心」に注目するならば人間や犬などが持っている「心」は同系統のものだということができる。しかしこの系統の幹とは全く別の幹から枝分かれした最末端、我々と同じものかどうかは別として我々と同じように「心」を持っているのがタコであるという。もう既にアツい。タコは我々人間とは全く別の幹からやってきたために我々とは認識の在り方その他が根本的に異なっているのではないかという問いに立ち、この本は進められていく。実に面白い観点。

頭足類を見ていると、「心がある」と感じられる。心が通じ合ったように思えることもある。それは何も、私たちが歴史を共有しているからではない。進化的にはまったく遠い存在である私たちがそうなれるのは、進化が、まったく違う経路で心を少なくとも二度、作ったからだ。頭足類と出会うことはおそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう。(p.10)

上で引用した文章を裏付けるような、タコに関する数々の逸話が本書には挙げられている。特定の研究員が水槽の側に近付いた時だけ水をかけるタコ、照明に水を噴射してショートさせることで照明を消すタコ、大して好きではないイカの切り身を研究員が目の前に来るのを待って排水ポンプに捨てて見せるタコなど。タコがここまでだとは考えたこともなかった。他には、クラゲのように上下の区別しかない生き物を放射相称動物、人間や犬のような上下に加え左右の区別もある動物を左右相称動物といい、左右相称動物の方が移動に適しているというのは面白かった。ただ、左右の区別があるため移動に適しているというよりは、移動にあたっては前後の区別は不可欠であるため自ずと左右の区別も為される、と考えた方が適切なのではないかとも思った。そんなこと言わなくても分かってますね、無粋でした失礼。

進化の歴史における2つの重要な内面化も興味深い。1つ目の内面化は外界の様子を察知して自らの細胞間で情報伝達をする神経系、2つ目の内面化は我々人間も頻繁に行うことであるが、頭の中で独り言を繰り返して複雑な思考を進めていくといった言語(この辺の話については言語は複雑な思考のために不可欠なものであるとするヴィゴツキーの説と、言語は不可欠なものではなく、我々が持っているのは全てホワイトノイズのようなものに過ぎないというヒュームの説が対立する)。興味深い。

従来、神経系を発達させて学習という営みをしていく動物は長寿であることによって学習効果と生存可能性を共に伸ばしていくという相乗効果が狙えそうなものであるが、タコやイカといった頭足類がその神経細胞の量に対して寿命が1,2年と非常に短いのも興味深かった。

自分の興味深い点はザッとこんな感じでした。こんなに愛らしいタコだけど祭になるとテキ屋のおっちゃんに焼かれてるの、なんか可哀想ですね(そしてこれからも俺はたこ焼きを食べ続ける。R.I.P)。

三月大歌舞伎を振り返って

三月大歌舞伎を観ました。歌舞伎を見るのは初めてです。周りには沢山着物を着たマダムが居りました。客の年齢層は極めて高く、皆さん足腰が弱っているのか客席の階段では多くの人が手すりに掴まっていた。ざっと見た限りでは自分が最も若かった。

演目は「盛綱陣屋」「雷船頭」「弁天娘女男白浪」の三つ。「盛綱陣屋」は源頼家北条時政の勢力争いに巻き込まれ敵味方に別れた佐々木盛綱、高綱兄弟の悲劇を描いた作品。弟高綱の首が本物か否か兄が検分する場面では首が偽物であったにもかかわらず高綱の息子小四郎が首に向かって泣きながら自害し、父高綱を庇う。兄盛綱は小四郎の覚悟を無駄にしないためにも弟のお家再興を願って北条時政に「首は本物である」と報告する。最後は自害して瀕死だった小四郎が息を引き取り、周囲が泣き崩れて幕が下りる。実に良かった。これはあくまで個人的な感想なのだが、私は第二幕と第三幕「雷船頭」と「弁天娘女男白浪」が非常に好きです。江戸の粋な町人は見ていて本当に気分が良くなる。「雷船頭」は船頭が舟を停めて休んでいると雲行きが怪しくなり、雷雲から降りてきた雷神と舞う。あの鬼のような雷神でも粋な船頭の前ではいなされてしまう。雷神が酒を飲もうとしても船頭に取り上げられ、やっとお猪口を取って飲んだと思ったら船頭は徳利から直に飲んでいる。粋な船頭と船頭に敵わない雷神の対比が実に心地よかった。先日Eテレの『にっぽんの芸能』でも特集が組まれていた「江戸のダンディズム」というのはきっとああいうものなのだろう。そして最後、大本命第三幕「弁天娘女男白浪」。これに関してはもう言葉で語りつくすことができない。元々自分は七五調に魅せられているのだが、今回観た河竹黙阿弥の七五調は近松門左衛門の七五調とは根本的に異なっている。近松の文章は人形浄瑠璃、つまり「わさびと浄瑠璃は泣いて褒めろ」と言われるくらいですから泣かせに来る悲劇の文章。対して河竹の七五調は江戸後期から明治初期にかけて、團菊左と言われた歌舞伎の全盛期を築き、「白浪五人男」に代表されるような、任侠のそれとはまた違った豪放さや嫌なことを笑い飛ばすような軽快さがある。もうこれ以上何を書いても自分の気持ちは収まらないのでこの辺で。

私は昨日、浜松屋での弁天小僧菊之助と稲瀬川沿いの白浪五人男勢揃いを観て目ェカッ開いて歯ァ食い縛るしかなかった。感動してそれ以外何もできなかった。

いつになるかは分かりませんがまた歌舞伎行きたいと思います。

#43 『三銃士』感想

アレクサンドル・デュマ『三銃士(上・下)』 岩波文庫

余りにも有名ですが、三銃士を読みました。岩波文庫上下巻で合計1200ページ、中々ボリュームがありました。最後にこういう長い作品を読んだのは三島由紀夫の『豊饒の海』のような気がします。確認したところ『豊饒の海』は新潮文庫版で全部で1754ページでした、どうでもいい話なのでこの話はこの辺で。作品とページ数は関係ない。

この作品はアレクサンドル・デュマの『三銃士』『二十年後』『ブラジュロンヌ子爵』と続く『ダルタニャン物語』の第1部目だそうですね。先日友人から聞かされて知りました。しかも調べてみると『三銃士』以外は岩波文庫からは出ていないようで、岩波文庫から出ていないどころか一つの出版社からしか出版されていないようです。大変困った、手に入れるのが困難なのでしょうか。既に未読本を積みまくっているので、所詮手に入れたところで、という感じですかね。後半2篇についてはつまらないと別の知人も言っていました。

このサイトではあらすじをさらっていきたい訳ではないので私の心に残った幾つかの文章を抜粋していきます。

「わたし達の国では、《スコットランド人の気位》という」とバッキンガム公はつぶやいた。

「私の国では、《ガスコーニュ人の鼻っ柱》と申します。ガスコーニュの人間は、フランスのスコットランド人なのでございましょう」(上巻p.414)

王妃の命によってバッキンガム公の元で一仕事した時のダルタニャンとバッキンガム公の会話です。私は勇気や男気を褒める発言が好きなのかもしれないです。勇敢さの在り方も時代や地域毎に比較することができそうだとおもいました(こういうのはジェンダー論の分野なのでしょうか)。日本で男気というとなんでしょう、「白浪五人男」とかなんでしょうかね。忠臣蔵の話になると忠誠の在り方の違いとかも関わってきそうですね。(そういえば丸山眞男の『忠誠と反逆』も積んであるな…忘れよう…)

「見事見事、貴公は詩人の王だよ、アラミス!(アトスは感嘆する)まったく黙示録そこのけの曖昧な書きっぷりだ。しかも、福音書の真実さだ。」(下巻p.284)

これはアトスが僧侶を目指しているアラミスを馬鹿にして言う場面ですが、アトスの皮肉は本当に鋭いですね。この発言もアラミスだけでなく聖書まで傷付けている訳ですから、この神をも恐れぬ無頼さもまた魅力的です。無口なアトスは後々大きく働くのですが、その場面も非常に面白い。個人的に4人を好きな順番に並べるとアトス→ダルタニャン→アラミス→ポルトスですね。アトスは実に良い味を出していると思う。

アトスはそれからミレディーの方に一歩近づいた。

「あなたが私にはたらいた悪事は、許してあげる。私の将来を傷つけ、名誉をふみ躙り、恋を汚し、暗い絶望に落して来世の希望まで失わしめた罪、一切を許すのだ。静かに死になさい。」

次にウィンテル卿が出る。

「私は弟の毒殺、バッキンガム公の暗殺の罪を許そう。なお、フェルトンを自滅させ、私にも危害を加えようとしたことをも許してあげる。静かに死になさい」

「そして、私は──」と、ダルタニャンが言った。「貴族らしからぬ欺瞞行為によってあなたの怒りを買った罪を、あなたにお詫びする。その代わりとして、私の恋人を殺し、また私にたびたび復讐を企てたことを許してあげます。私はあなたの最期を悲しく思う。静かにお死になさい」(下巻p.559)

これは枢機官の有能なスパイとして働いていたミレディーが処刑される直前の場面。今まであらゆる男の恨みを買ってきたミレディーがその分の精算をさせられようとしている。あまりに凶悪なこの女に対して全員が罪を許しているが、しかし全員がこの女が死なねばならないと考えている。この会話は簡素な小屋で行われているのだが、口調の静けさが男達の怒りを実によく表している。最も胸が熱くなるシーンと言わざるを得ません。

まあこういう風に、今回もよく分からない記事になってしまいましたが、この赦免状を見れば許して頂けると思います。

《この紙片を所持する者のなしたることは、予の命令によるなり。一六二七年十二月三日・ラ・ロシェル陣営              リシュリュー

#42 『砂の女』感想

安部公房砂の女新潮文庫

あけましておめでとうございます。滅多に更新しなくなってしまったこのブログですが、私はきちんとブログの存在を覚えてますよ。具体的には、週4回アクセス数を確認するくらい覚えてます。いきなりですが少し良い報告があります。このブログは始めてから確か4年目になるのですが、アクセス数がほぼ毎月100アクセスを超えるようになりました。全く更新していないのに何故増えているのかかなり疑問ですが、私の書いた拙い文章でも見て下さる方がいるというのは嬉しいことです。ありがとうございます。2018年は読んだ本がレポートの参考文献とかなり被っており、学校側から剽窃の疑いをかけられるのを避けるために記事更新が少なかった、というのは間違いなくあります(言い訳)。なので今年はそこそこの頻度で更新させて頂きたいと思ってます。バイトで稼いだ金を本に投資してたら本棚2個目に入ったとか、読書量に対して供給過多のため積ん読本がどうしようもなくなっているとか、読書量を増やしたい理由はそこら中にありますし。2019年も何卒よろしくお願いします。

2019年栄えある一冊目は安部公房失踪三部作(この言い方は友人から教えてもらった)の『砂の女』です。新年早々幸先悪いですね。この本をなぜ読んだかというと、読みたかったからです、以上。積ん読でした。最初は大晦日読了チャレンジとかいうのを思いついてしまい、やってみたのですが、意外と読み終わりそうだったのに例の如く2018年内に読み終わりませんでした。情けないね。読み終わったのは昨日です。

主人公が閉じ込められたのは砂の穴に沈みつつある家で、そこに住んでいる一人の女と、家が沈んでいくのを必死に防がなければならない。スコップで砂を掻き出すというのも何とも要領の悪い、いっそ埋まってしまえば良いと思ってしまうような単調作業であるが、これを毎晩続けなければならない。部落の人達も主人公を騙してその家に縛り付けることについて何の罪悪感も無い。極めて洗練された悪の形である。しかし悪がどちらかというのが一概には決められないことは以下の文章から読み取れる。

女をとおしてむき出しになった、部落の顔らしい。それまで部落は、一方的に、刑の執行者のはずだった。あるいは、意志をもたない食肉植物であり、貪欲なイソギンチャクであり、彼はたまたま、それにひっかかった、哀れな犠牲者にすぎなかったはずなのだ。しかし、部落の側から言わせれば、見捨てられているのはむしろ、自分たちの方だということになるだろう。(p.246)

部落は砂丘に埋もれていく一方であり、元の住民もそう簡単に移動できるわけではない。そのため部落は砂に抗いながら暮らしていくことを選んだ。そういう状況の中で国は金を出さない。自分たちの故郷が砂に埋もれていくことなど気にも留めない国。当然怒りが湧く。部落にとっては部外者全てが目の敵であり、迷い込んだ彼らを家に縛り付けて砂を掻き出させ続けるのは部落の保存と国への反抗の両方を同時にこなすことができる。当初、主人公が女の犯した罪について考えていたように、「刑の執行」というテーマで文章を読んでいくこともできるかもしれないが、問題はそこには無い気がする。解説でドナルド・キーン氏が述べていることには、構造を解釈しようとするのはナンセンスらしいのできっと構造とか日本語文の美しさが問題なのではないのだろう。私はこの作品においては「男が如何にして部落の一部となり果てるか」に着目したい。私が二度目に読むときにはこの点に注視しようと思っている。

最初騙され、閉じ込められた男は気違い沙汰になりながらも砂の穴から脱出しようとした。やがて女と共にスコップで砂を掻き出し、女と共に生活していく。一度は上手く行きかけた脱出も、「塩あんこ」に足を取られて捕まってしまった。当初カラスを捕まえて手紙を飛ばそうと思って名付けた罠「希望」も罠として機能しなかった。その代わりに砂から水を得る優れた装置として機能していた。穴の外に出て再び元の生活に戻ることへの「希望」は、砂に埋もれつつある部落に順応し、村人の一人として生きることで偶然見出された「希望」へと変容してしまった。この希望はモザイックの断片に飲み込まれていたために今まで気付かなかった希望である。砂から水を得ることができればより良い生活が待っているのだろうが、その生活は部落での生活である。

男はラジオという女の憧れを得るために手を貸してやり、内職を手伝い、やがて女が主人公の子供を身籠り、子宮外妊娠で血を流すと女を心配した。女がオート三輪で病院へ向かう時、久しぶりにかけられた縄梯子は外されなかった。他の村人が縄梯子をはずさなかったのは緊急事態であったというのは勿論あるだろうが、この時男は完全に部落の一部になっているからではなかろうか。男は縄梯子から穴の外へ出たが、往復切符で元の生活に帰ろうとはしなかった。元の生活に帰ったとしても待っているのは嫉妬にまみれた小学校教員としての日々、肌まで灰色になった同僚達、労働組合と上司との板挟み。今まで必死に帰りたいと思っていた自分が断片に飲み込まれていたことに気づき、モザイックの全体を見た時、男は部落の一部として生きていくことを決めたのだと思う。

作品の最後には失踪届出と失踪宣告の書類が載せられており、主人公は法的に失踪人となったが、これは勿論断片。モザイックの全体を見ればこの作品はハッピーエンドであると思う。