辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#46 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ

マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫

 1.はじめに

本記事ではマックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)の中で著者がどのようにプロテスタンティズムと資本主義の二者の関連を見つけ、どのように結論づけたのかということを読み解いていく。理解にあたって、著書の中でも語られている通り、マックス・ヴェーバーは「私は実際生活に対するそれらの影響を問題としている。[1]」というように著者が論述したいのは教義ではなく、あくまで経済活動への影響であり実際生活そのものであるという点を踏まえたい。

2.本論

 2-1.プロテスタンティズムと資本主義の成立について

 ヴェーバーは本書の中で、問いの答えを導くための極めて重要な例に、資本主義社会において高級労働(高所得労働とも取ることができるだろう)に就いている人間にはプロテスタントの数が極めて多いことを挙げている。この理由として大学進学資格者におけるプロテスタントの数がカトリック信徒の数よりもはるかに大きいという点に着目し、この点についてプロテスタントの収入の多さがそのまま反映されている点は否定できないとした。カトリック信徒の子息の教育には、大学進学者が極めて少ない(これは前述の理由に依るところが多いように思われる。)、実業学校など営利向き学校に通う者が少なく、教養課程中心の学校を好む、など幾つかの特徴が見られている[2]。このようにカトリックと対極に位置するように、プロテスタントの場合は宗教的生活規則と事業精神の高度な発達が結びついている。

 周知の事実であるが、プロテスタントは1517年に当時の腐敗したカトリック教会から分離する形で誕生した。プロテスタントの誕生にはカトリック的伝統主義への反抗としての側面も勿論含まれていた。この“反抗”が全体としてどのような形をとっているのかに少し着目していきたい。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』18ページの実に興味部深い文章を抜粋する。「じじつ、当時経済的発展が進んでいた諸地方の宗教改革者たちが熱心に非難したのは人々の生活に対する宗教と教会の支配が多すぎるということではなくて、むしろそれが少なすぎるということだった。」。これは一見異常な事態と思われるかもしれないが、このような考えを持った人々がのちにプロテスタントとなり、資本主義社会における支配階層(この表現は適切ではないかもしれない)にもなり、資本主義の画期においてはその制度を推進することとなった点には注視していなければならない。

 次に、宗教改革後のプロテスタントを支配していた道徳がどのようなものであったのか考えていく。考えるにあたって、「宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ、ということだ。[3]」という一文に注目したい。従来のカトリック教会による民衆への支配には、形式的であり日常生活に及ぼす影響が極めて少ない、といった特徴がある。一方プロテスタントによる民衆への支配は、あらゆる点でこれの対極を取っていくように家庭・公的生活の全体を縛り、厳格な規律を要求するものであった。

 2-2.Beruf「天職」について

 プロテスタンティズムと資本主義の関係を考えていくにあたって外せない点がもう一つある。”Beruf”である。これは、マルティン・ルッターが旧約聖書外典「ベン・シラの知恵」を翻訳した際に生まれた特有の語である、とヴェーバーは主張している[4]。つまりルッターが解釈(「発見」という言葉を使っても差し支えない)し、作り出したプロテスタンティズム特有の考え方といえる。この”Beruf”という単語には梶山力の翻訳以来「職業」という日本語が充てられていたが、1989年に岩波文庫から出版された大塚久雄訳では「天職」という日本語が充てられるようになった[5]という裏話がある。私はこの「天職」という語の方がよりプロテスタンティズムの核に迫るものであると考えている。

本書で扱われている問題に深くかかわっているテーマに、「禁欲」がある。経済発展のためには禁欲であるよりも強欲である方が重要であると思うかもしれない。しかし、ヴェーバーは中国人商人と対比させながらプロテスタントの「禁欲」が持っている可能性について言及している。かつて中国という国はヨーロッパ諸国とは異なり、商売や金儲けを卑しい物とする風潮が皆無であったという。そういう環境にあって、中国の商人達は憚ることなく商売の話ができた。商人たちのモチベーションは十分であるにもかかわらず、中国で資本主義が成立することはなかった。資本主義発生の過程を見て取ることができるのはプロテスタントを信奉していた地域なのである。この話の続きは後で触れることとする。

禁欲には主に二種類ある。キリスト教的禁欲と世俗内的禁欲である。キリスト教的禁欲というのは修道院の中で聖職者たちによって実践された禁欲であり、世俗内的禁欲というのは聖職者のみならず民衆レベルで実践され、民衆の日常生活に浸透し、習慣化した禁欲である。ここで、2-1で引用した「宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ」という一文を思い出してみたい。キリスト教的禁欲(修道院における禁欲)は宗教改革以前の伝統主義、すなわちカトリック教会による支配と解釈することが可能であり、世俗内的禁欲は宗教改革以後の打倒伝統主義、すなわちプロテスタントによる支配と解釈することが可能ではなかろうか。これには、支配が別の支配に取って代わられることの他にも、資本主義の推進において非常に重要な役割を果たしている。それは、「禁欲」を閉ざされた空間(修道院)から開かれた空間(民衆)へ開放したという役割である。Beruf「天職」という概念は世俗の職業及びそれに従事している多くの民衆を対象としている。こうして民衆たちに習慣レベルで浸透していった禁欲は、民衆に、清廉な日常生活を送ることに意味を見出すきっかけを与えた。勿論のことであるが、この清廉な日常生活の中には習慣として染みついた節約や倹約なども含まれていた。

   プロテスタンティズムにおける禁欲は意図せずして二方向に進んでしまった。本流というべき一つ目は、敬虔な信徒を多く生み出したこと。そして支流というべき二つ目は、節約の副産物として富を生み出してしまったことである。貪欲であるため金儲けをする、などといった小さなスケールの話ではなく、日々の宗教的生活や信徒としての敬虔さが目先の貪欲を抑え、(何度も言っているが)結果としてより大きな富の獲得へとつながってしまったということは実に興味深い。資本主義社会においては、自分の貪欲さをコントロールすることが特に肝要であり、この制御能力はプロテスタントの日常生活の中でこそ習得することが可能であったのだ。

 2-3.結果としての「富」について

 2-1で述べたように、プロテスタントの方がいわゆる商売上手で、職人としても優秀な人材が多いということは古くから言われてきた。それには前述したようなBeruf「天職」の思想に依るところが大きいが、それだけではない。カトリックプロテスタントの比較というのはしばしば行われており、その比較の中でしばしば取り上げられてきた例にはこのようなものがある。カトリックは非現世的・禁欲的であるからこそ現世の財貨には無関心なのであり、プロテスタントは禁欲的ではないが、逆に現世的であるからこそ現世の財貨を求める、というものだ[6]。この構図は勿論誤ったものであるが、カトリックプロテスタントの双方が好んで用いた論理であるために事実を曲解させているという。カトリックは、上にあげた論理を使って「我々は禁欲的であるからこそ現世の財貨に無関心なのだ。」と経済力の無さに言い訳をし、一方プロテスタントは「我々は禁欲的ではないが経済力を持っている。」とカトリックに対して当てつけのような皮肉を言う。

   日常生活の中で禁欲を実践する方法の一つに「節約」が挙げられることは2-2で触れた。プロテスタントにおいてこの節約は徹底的に行われるべきものであり、その根底には、より質素な生活を営むべきであるという禁欲の精神があるように思う。この徹底的な節約のために厳密に帳簿を付けていく文化が発達したことについては、大いに頷くことができる。簿記の発達は商業のみならず他の諸産業においても非常に有用なものであり、従来の取引に変化をもたらし、ある部分では洗練し、ある部分では複雑化させた。ここに、簿記の発達が資本主義社会の発達を促すという一連の流れを見て取ることができよう。

最後に、絶対に留意しておきたい重要なことがある。それは、プロテスタンティズムにおけるエートス(倫理・道徳)は決して富の蓄積を目指したのではないという点だ。先にも述べたように、簿記の技術はプロテスタント信徒達が質素で清廉な生活をし、世俗内的禁欲を指向するために発達したのであり、決して資本主義社会の発達を目指して行われたものではない。プロテスタント信徒達による敬虔な信仰の副産物として、富が生まれたに過ぎないという点には留意しておかなければならない。

3.結論

 親が子に語る教訓として「真面目な人が成功する」系統の話はイソップ寓話を初め多く存在しているように思う。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がその一つであるとはとても言えないだろうが、経済(特に資本主義)の発達過程においてどのように「真面目な人が成功」したのかを極めて精緻に、理論立てて説明したのが本書であるように感じた。実際、不真面目とまではいかないが目先の貪欲に負けてしまう人間の元には成功は訪れなかった。そしてプロテスタントの影響とはいえ、自らの職業を「天職」として正面から向き合った人々は、初めから社会的経済的成功を目的としていなかったにせよ、成功を納めた。近代的資本主義の発生段階におけるアメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンの教えが幾つか挙げられていたが、彼の活躍した時代は宗教改革から200年以上が経過しており、このフランクリン時代のアメリカにプロテスタントがどれだけ色濃く残っていたかは想像に易い。たとえ宗教としてのプロテスタンティズムが廃れ、薄れていこうともプロテスタンティズムが持っていたエートスは時と場所に関係なく受け継がれ、新たな成功者を生み出していることと思う。

 

[1] マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫,1989.1,p.14

[2] M.ヴェーバー(1905),p.21

[3] M.ヴェーバー(1905),p.17

[4] M.ヴェーバー(1905),p.397

[5] M.ヴェーバー(1905),p.398

[6] M.ヴェーバー(1905),p.26