辣油の四方山記

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#39 『ペンギンの憂鬱』感想

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』 新潮クレストブックス

この本は元々友人に薦められたもので、新しい分野、雰囲気を味わうのも良いと思い読んだ。こういう海外文学を読んだのは初めてで、中々に新鮮だった、というのがまずある。小説を読むとき、情景を思い浮かべながら読むと思うのだが、この作品に出てくる風景は映画『ワンスアポンアタイムインアメリカ』と似ている感じがした。キエフの街並みはよく知らないから実際はどうか知れない。寒そう。

完全に私の主観であるし紙に書き出した構想がある訳でもないのでアレだが、この作品は前半と後半とでカラーが全く違ったものになっていると思う。暗くて冴えない前半と、もう引き返すことが出来ずに加速し続ける後半。実に手に汗握るものであった。この作品の主人公はヴィクトルといい、売れない小説家をやっており、動物園の経営不振で飼育できなくなったペンギンのミーシャと暮らしている。ミーシャは憂鬱症にかかっており、両者とも暗い生活を送っているところから始まる。ヴィクトルは何かを境に「首都報知」という新聞社から依頼される記事を書くようになり、金を稼ぐようになるのだが、その記事というのが、まだ生きている有名人の追悼記事。やがて彼が書いた追悼記事の通りに政治家や歌手が死んでいく。段々楽しくなってきましたな。その内新聞社だけでなく、ペンギンと同じミーシャという名前の男からも追悼記事の依頼を受けるようになり、そこからも報酬を得るようになる。ここの時点でもうヴィクトルは引き返せなくなっているんじゃないかなあ。書いた通りに人が死ぬ追悼記事を依頼してくる奴(等)なぞ異常に決まっている。ヴィクトルが出張の間、ペンギンの世話をするよう依頼した頃から警官のセルゲイと交流するようになるとこの話も幾らか明るくなる。そもそも、憂鬱症のペンギンは不眠症でもあるためにその様に描写されているのだが、これがこの作品全体の謎めいた空気感を作るのに大いに貢献しているように思う。

〈ペンギンのミーシャ〉は"日常"の象徴。その"日常"が鬱屈としたものか、明るく楽しいものかは問わない。対して〈ペンギンじゃない方のミーシャ〉は死を近づける"危機"の象徴。実際に自らも死んでいる。〈ペンギンじゃない方のミーシャ〉がヴィクトルに与えたのは娘のソーニャと不吉な100ドル札束・ピストル。尤も、ソーニャだけは例外であり、ニーナと共に家族ごっこに参加する"日常"としてある。"危機"の一部が"日常"に組み込まれたとも言える。〈ペンギンのミーシャ〉の危篤は"日常"が壊れようとしているその一部として働いているのであろう。ヴィクトルが自分の追悼記事を読むのもそうだろう。しかしあと一歩で踏みとどまる。〈ペンギンのミーシャ〉は快方に向かい、ヴィクトルは死を免れる。ここで初めて"ペンギン"はシェルターとしての南極へ行くことが可能になったのだ。物語最後の

私がペンギンです

の言葉と共にヴィクトルは南極に行くのだろうが、これはヴィクトルなりに考え出した最も優しいやり方だったのだろうと思う。ニーナとソーニャ、そして〈ペンギンのミーシャ〉という"日常"達を一切傷付けることなく自らに迫る"危機"を回避しようとするものであるからだ。そして勿論であるが、その題名『ペンギンの憂鬱』というのは憂鬱症のペンギンを指しているのではなく、"危機"に瀕しているヴィクトルを指しているのだろう。

実に面白かった。