松風の四方山記

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#27 「野火」感想

大岡昇平『野火』 新潮文庫

今回は戦争作品の金字塔、大岡昇平の「野火」を読みました。金字塔といっても自分はいくつも戦争作品を読んだ訳ではなく、今回が最初です、アハハ。金字塔という言葉を使いたかっただけなんですね。お目汚し失礼。自分はこれがどんな作品と思ってこの本を読み始めたのかよく覚えていませんが、(何故か面白い作品だと思っていた)一言で感想を言うなら、“鮮烈”。この一言に尽きると思います。私が今まで読んだ本の中で最も心にグッと来たのは三島由紀夫金閣寺」でしょうが、この「野火」は実際に本人の経験に基づいているというのが一段とリアリティを増している。何を普通とするのかは良く分かりませんが、普通小説の文章というのは緩急があるものだと思います。しかしこの作品の全てが生死に関わるものであり、全てが“急”であると言える。正直、この作品に関する感想は何とも言い難いです。よく教科書で見る戦争とは全く異なった戦争の形が描かれている。所謂、上層部の名前ある軍人達の作戦指揮ではない、白兵戦の部分です。常に食料は底を突きそうな状態にあり、フィリピンの熱帯の中、どこに向かえば良いのかも分からず独りどこかへ往かねばならない、絶望。この孤独と絶望の中生きる目的を見出すのは奇跡と云うに近いであろう。主人公である田村は、飢えの余り自分の身体に付いた山蛭すら口にした。途中、自分と似た境遇の永松という病兵と合流する。彼は“猿”の干し肉を食っていた。銃で猿を撃ち、肉を干すのだという。田村もこの“猿”の干し肉を食べた。しかし猿というのは熱帯雨林の中迷って独りになった日本兵のことであり、彼らはこれを撃って食べていた。ここで田村のカニバリズムと永松のカニバリズムには“彼ら”とひとまとめにはできない大きな差がある。干し肉を人肉と認識しているか否かという差だ。少し端折るが、結果的に田村は最後まで人肉を意識して食すことが出来なかった、といえる。かつて田村は道の途中に転がっている日本兵の尻の肉がえぐられていることに気づき、限界の中では同属のヒトが食料になり得ることを知っていた。それでも、食料とは認識しなかった、できなかった。田村が永松と合流するとき、田村は獲物として永松に銃口を向けられていた。一歩間違えば自分が“猿”になっていたかもしれぬのだ。こういう理由もあるのかもしれない。しかしまだ原因はありそうなものである。海岸にたゆたう死体をまざまざと見たことか、教会で逢瀬を重ねていた女を射殺したことか、田村がかつて信仰していたキリスト教の教えのためか。何なのかは自分には良く分からない。

主人公は肺病のために部隊を追われたことがきっかけで独り彷徨うことになった。鬱蒼と茂る木々と先の見えない絶望の中、彼の目についた「野火」は、その下には人間がいるかもしれないという期待であり、敵対するフィリピン人、アメリカ人であったとしても、降参の意思を表すことで自分の生きる道を開く希望であった。それは戦争が終わり、精神病院に入ってもなお田村の目に映る記憶となっていた。彼が見た野火が敵軍の狼煙であったとしても、フィリピン人が芋を煮ている煙であったにせよ、彼を含めた彷徨う日本兵達にとっては心の拠り所であったのだろう。