辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#1 『金閣寺』感想

三島由紀夫金閣寺』 新潮文庫

いや〜今回は三島由紀夫金閣寺です。読む前までは吃音に悩む若い学僧の溝口が金閣寺に放火してしまうという話しか知りませんでした。それが大体のあらすじなわけですが。自分は小説というと、今まで司馬遼太郎歴史小説しか読んでこなかったわけでして、文学としての小説については知識だけはあっても経験の無い童貞でした。なので今回が卒業ということになりますから皆さん祝ってください。赤飯でも炊いといて下さい。ところで本題に入ります。

まず自分が感動したのは三島由紀夫の表現力の豊かさです。特に野心が無く、親の言うことに従う鶴川という友人に対して「箸箱にきちんとはまっている箸」、金閣の破壊を望む溝口が澄み渡る空を見て「大きな斧」と。一体どう徳を積めばそのように潤沢な表現力を得られるのか疑問でならない。読んでいて非常に心地良い。
この本の根幹にあるものの一つに美意識、美への執着というものがあるように感じます。その執着というのは吃音という壁によって外界との接触を避けることを強制されてきたからこそ強くなり得るものであると思います。何でしょう、文学作品だからそう思うのかもしれませんが、溝口の中に、追いかけ過ぎて相手を殺してしまうストーカーよりも遥かな気高さと誇りを感じるのですよ私。確かに欲求を満たす為、相手を永久に自分の中に留めておく為に消す、殺すという点ではストーカーも溝口も似ているかもしれませんが、そういう次元じゃない何かがあるように思いませんか。
ここまで「美」に対する感情や意識について細やかで繊細な描写ができるのは、勉学面だけでなく肉体的で艶かしい美を意識した三島由紀夫ならではなんでしょうか。暇を見つけたら他の作家との読み比べもしたいと思います。
そろそろ真面目な話に(自分が)飽きてきたと思うので不真面目な話もします。先程述べた三島の妖艶な描写での濡れ場もこの本の見どころなんじゃないですかね。いやあんまり書くと不快に思う人もいらっしゃると思うので控えますが登場人物が勃起不全になったきっかけとかね。なんと官能的なことか。あと勃起不全のこと「不能」って書いてあったりね。私は不能ではないので読みながら電車の中で勃起しましたけど。
話を戻します。この本の題名にもなっている金閣寺は勿論溝口の中の美、溝口が吃音の為に隔離されていた「生」と対極に在る美であることは確かだと思います。しかし溝口には金閣寺以外に憧れ、また金閣寺と相対する「生」を象徴する美、有為子の存在も注目すべき対象であるように思えてならないのです。結局有為子も青年将校と心中し、死んだ者ではありますが溝口の中に有為子から侮辱された記憶、その侮辱が溝口と隔てる「生」に対する憧れは確実にその心に影響を与え続けたはずです。実際に有為子に想いを馳せつつ至ろうとした性交を邪魔したのは金閣であったところからも溝口の中でも有為子と金閣が対極する存在であることが読み取れるでしょう。しかしここで我々が注意せねばならないのは、有為子が「生」の象徴だからといって金閣寺は「死」ではないということです。注目すべきは生か死かではなく、半永久的に持続する遥かな美であるか、儚く散る短命な美であるかにあります。
溝口が金閣寺に対する執着を見せる理由として、幼少期から続く父からの吹き込み、そして吃音による生への諦め、失望があるかと思います。自分は後者の方が遥かに重い意味を持ち得るように感じていますが。吃音の為に「生」の現場である外界との親和が上手くいかなければ「生」とは異質の美に憧れを抱くのは当然の結果でしょうし、溝口の場合は特に金閣寺に向きやすいのも想像に易い話です。
嘗て初めて見た時には失望した程に魅力を感じなかったはずの金閣の「美」が放火する直前になって溝口を覆い、考え得る限りの至高の美にまで昇華されたところを見ると、例え溝口がどのような考えを持とうとその根源、頂に君臨するのはやはり金閣なのではないか、放火されても尚溝口を支配するのは金閣なのではないかという憶測が私の中で止みません。彼は美しい夕陽、女性の乳房を見てさえも金閣を浮かべるようにまでなっているのです。また触れておかねばならぬことには、溝口が柏木や老師と云った人びとと関わるに連れて得るアンチヒーロー的快楽についてです。アンチヒーロー的快楽を感じることは吃りによる卑屈な部分を圧倒するというのに彼は気付き、実際短い間ではありましたがその様に行動し、確かな優越感を感じていたことでしょう。金閣寺を燃やすというのは、その美を本人の中に留め、支配すると同時に社会に対する一種の謀反的意味合を持っていたのだろうと思います。そうすることで今まで吃音が作り上げてきた厚い殻を破るきっかけにしようとしたこともあるでしょう。この部分は非常に字に起こしにくいのですが、溝口自身はその美しさを永遠に支配する為に金閣を燃やしたと思っているかもしれません、しかし、私も何故そういう風に感じたのか思い出せないのですが、逆に支配され、これからも支配され続けるのは溝口の方であるというのは本人も気付いていないことだろうというのが私の考えです。