辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#41 『月と六ペンス』感想

サマセット・モーム『月と六ペンス』 新潮文庫

この本もある友人に薦められた。友人に薦められてばっかだな俺、少しは自分から読め、という感じがする。

率直な感想としては、とんでもなく面白かった。自分はこういう話好きですね。その友人が薦めてくれる本は途中から止まらないトロッコに乗った様な激しさを持って終わりまで突っ切るものが多い気がしている。

この作品の主人公はチャールズ・ストリックランドという男で、イギリスで証券取引所の社員をしていた。彼には妻がおり、息子と娘も居た。しかしある日突然失踪し、全てを捨てて彼はパリへ飛び立った。物語の本筋はここから始まるといっていい。残された家族にこの意味がわかる筈がない。彼に、充実した日々を捨てさせたものは"美"であった。彼は失踪した後画家として絵を描き出したが全く売れず、貧民街のボロいホテルで貧しい生活を送っていた。港湾労働者として港町をウロついていることもあった。しかし画家にはよくある話なのかもしれないが、彼は死後、天才として評されることとなる。

彼は"美"を志す無頼であった。決して人に気に入られようと取り入ることはせず、そればかりか好意的に接しようとする者にさえ暴言を浴びせた。

今回は手短になってしまうが、最後に幾つか心にグッと刺さった数節を引用したいと思う。

「最初の亭主のジョンソン船長は年中あたしを殴ってた。あれこそ男ってものよ。ハンサムで身長は百八十センチ以上あった。酔っ払うと歯止めがきかなくなってね。殴られると、身体中あざだらけ。死んだときは泣いたわ。忘れられるはずないと思った。」(p.317)

この異様な雰囲気は何なのだろうか。私はDVに賛成でもないし男尊女卑論者でもない。この女が男の暴力性を賛美するという、現代から見た異様さは確実にこの作品を「名作」に押し上げている。正直、朝の電車でこの本を読んでいた私はつり革を掴みながら驚きが止まらなかった。奇形の動物を見たときに湧き上がってくる感情と似ているかもしれない。私が現代の人間であるからだろうか。女に暴力を振るう男にのみマッスルニティが認められるなどとは微塵も思っていないが、この作品を読んでいる間だけはどうしても認めたくなってしまう。ストリックランドの狂気が移ってしまう。

「女ってのは変な生き物だよ」ストリックランドはクトラ医師にいった。「犬のようにあつかい、手が痛くなるまで殴っても、まだ愛してるという」(p.344)

「しまいには、男は女のものになってしまう。こいつらの手にかかればどうしようもない。白人だろうが現地人だろうがちっとも変わらんよ」(p.345)

一度は故郷イギリスで女のみならず家族も捨てたストリックランドだが、タヒチで出会った女について上のような発言をする。文学に対して実に無粋かもしれないが、『月と六ペンス』をジェンダーというテーマであれこれやるのも面白いかもしれない。浅はかかな。

ストリックランドはやがて身を落ち着けたタヒチハンセン病に罹る。ハンセン病にかかり、顔が次第に崩れていく。ストリックランドの危篤を伝える使いが医師の元を訪れ、医師は彼の家に向かったが、既に彼は事切れていた。ストリックランドはハンセン病で失明した後も、全てを投げ打って追い求めてきた美を壁に描いていた。壁一面がストリックランド最期の絵、美の終着点とも言える絵でうめつくされていた。

言葉に表せないほどの迫力がある神秘的な絵だった。医師は息を飲んだ。ある感情が全身に広がった。理解も分析もできない感情だった。(p.352)

世界の始まりを目撃した人が、きっと同じように感じたことだろう。驚異的で、官能的で、情熱的な絵。同時に、どこか残酷でもあった。(p.352)

ハンセン病患者特有の甘ったるい吐き気を催すような匂いの中、最期の絵を見た医師が抱いた感情である。

最後に、ストリックランドについて語った実に魅力的な文章を引用したいと思う。

その絵を描いたのは、秘められた自然の深みにわけ入り、美しくも恐ろしい秘密を探し当てた男だ。その絵を描いたのは、知ってはならない秘密を知った罪深い男だ。(p.352)

名文だと思う。

#40 『五輪書』感想

宮本武蔵五輪書岩波文庫

これもずっと前から読もうと思っていた本。最近同じような趣味を持つ友人と偶然出会い、色々話して思ったのだが、私の読書量など屁の突っ張りでもない。薄々気付いていたことであるが、実に良い刺激になった、ありがとうございます。で、読みたい本はバシバシ読むことにしたのだが、また忙しくなってしまった…拍子が悪すぎる…(元ネタは『五輪書』)。読む前にワクワクするとか、アレもコレも、というのは結局一冊も読めないことが分かったのでそういうものも要らんのだ。俺はこれからも読むぞ。そんでは本題。

この本、岩波書店のページで見ると、宮本武蔵 著となっていて思わず笑ってしまう。確かに宮本武蔵が書いたけども…という感じ。全体は地水火風空の5つに分かれており、それぞれ内容が異なる(当たり前か)。

兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初而書物に顕はさんと思ひ〜

という書き出しで始まる。この二天一流という言葉は中々有名であろう。以前読んだ漫画、板垣恵介先生の『刃牙道』でもスカイツリー地下で宮本武蔵のクローンが作られた、という話があった。漫画では宮本武蔵が現代を生きる地下ファイター達と戦いを繰り返すのだが、作品自体相当『五輪書』を叩き台にしていることが分かる。一々確認するようなことはしないが、実際確認しても相当数あるはずである。

少し話が逸れた。この本を読んでいてまず思ったことがある。勝ちへの執念が恐ろしく強い、ということである。勝つためには手段を選ばない、という定型句のようなものがあるが、正にその通りである。勝って相手を斬る、このことが宮本武蔵を貫いている。21世紀に生きながら武蔵がこの書を著した17世紀の血生臭さがありありと伝わってくる。私は特に日本の古典が好きなのだが、そういう意味でこの本は古典の醍醐味を非常に高い水準で読者に提供してくれる。やはり血や死というものをそれこそ浴びるように潜り抜けてきた宮本武蔵のなせる技なのであろうか。情景描写は殆どない。しかしここに書かれているのは確かに「相手を殺すための技術」であり「自分を殺しに来る相手の観察記録と対応方法」なのである。それだけで十二分、『徒然草』や『源氏物語』など足下にも及ばぬ臨場感であった(あくまで臨場感であって文学的意義などではない)。

五輪書』をただ兵法書として扱うのは忍びないことであろうと思う。この現代にも響く名句も多い。

千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。(p.75)

兵法の道をつねに鼠頭午首とおもひて、いかにもこまかなるうちに、俄に大きなる心にして、大小にかわる事、兵法一つの心だて也。(p.108)

鍛錬に関する上の記述などはいつの時代にも努力を怠らないことの重要性を伝えるものではないか。「継続は力なり」というありきたりな言葉が嫌いな私にはよく響いた。鼠頭午首というのは鼠の持つ細心さと牛の持つ大胆さを兼ね備えよ、との教えらしい。「大胆かつ繊細に」という感じだろうか。まあ鼠頭午首の方がイカすので明日から座右の銘にしますね、はい。

敵の心になき事をしかけ、或は敵をうろめかせ、或はむかつかせ、又はおびやかし、敵のまぎるる所の拍子の理を受けて、勝つ事(p.124)

私もこれからどんな人に出会うか分からないからこれくらいの心構えが必要なのだろうか。胸に留めておく。

最後に、『五輪書』最終巻、空之巻の締めの部分からの抜粋。いつの時代も努力が必要なのだと改めて知らされた。読んで良かった。

武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。

#39 『ペンギンの憂鬱』感想

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』 新潮クレストブックス

この本は元々友人に薦められたもので、新しい分野、雰囲気を味わうのも良いと思い読んだ。こういう海外文学を読んだのは初めてで、中々に新鮮だった、というのがまずある。小説を読むとき、情景を思い浮かべながら読むと思うのだが、この作品に出てくる風景は映画『ワンスアポンアタイムインアメリカ』と似ている感じがした。キエフの街並みはよく知らないから実際はどうか知れない。寒そう。

完全に私の主観であるし紙に書き出した構想がある訳でもないのでアレだが、この作品は前半と後半とでカラーが全く違ったものになっていると思う。暗くて冴えない前半と、もう引き返すことが出来ずに加速し続ける後半。実に手に汗握るものであった。この作品の主人公はヴィクトルといい、売れない小説家をやっており、動物園の経営不振で飼育できなくなったペンギンのミーシャと暮らしている。ミーシャは憂鬱症にかかっており、両者とも暗い生活を送っているところから始まる。ヴィクトルは何かを境に「首都報知」という新聞社から依頼される記事を書くようになり、金を稼ぐようになるのだが、その記事というのが、まだ生きている有名人の追悼記事。やがて彼が書いた追悼記事の通りに政治家や歌手が死んでいく。段々楽しくなってきましたな。その内新聞社だけでなく、ペンギンと同じミーシャという名前の男からも追悼記事の依頼を受けるようになり、そこからも報酬を得るようになる。ここの時点でもうヴィクトルは引き返せなくなっているんじゃないかなあ。書いた通りに人が死ぬ追悼記事を依頼してくる奴(等)なぞ異常に決まっている。ヴィクトルが出張の間、ペンギンの世話をするよう依頼した頃から警官のセルゲイと交流するようになるとこの話も幾らか明るくなる。そもそも、憂鬱症のペンギンは不眠症でもあるためにその様に描写されているのだが、これがこの作品全体の謎めいた空気感を作るのに大いに貢献しているように思う。

〈ペンギンのミーシャ〉は"日常"の象徴。その"日常"が鬱屈としたものか、明るく楽しいものかは問わない。対して〈ペンギンじゃない方のミーシャ〉は死を近づける"危機"の象徴。実際に自らも死んでいる。〈ペンギンじゃない方のミーシャ〉がヴィクトルに与えたのは娘のソーニャと不吉な100ドル札束・ピストル。尤も、ソーニャだけは例外であり、ニーナと共に家族ごっこに参加する"日常"としてある。"危機"の一部が"日常"に組み込まれたとも言える。〈ペンギンのミーシャ〉の危篤は"日常"が壊れようとしているその一部として働いているのであろう。ヴィクトルが自分の追悼記事を読むのもそうだろう。しかしあと一歩で踏みとどまる。〈ペンギンのミーシャ〉は快方に向かい、ヴィクトルは死を免れる。ここで初めて"ペンギン"はシェルターとしての南極へ行くことが可能になったのだ。物語最後の

私がペンギンです

の言葉と共にヴィクトルは南極に行くのだろうが、これはヴィクトルなりに考え出した最も優しいやり方だったのだろうと思う。ニーナとソーニャ、そして〈ペンギンのミーシャ〉という"日常"達を一切傷付けることなく自らに迫る"危機"を回避しようとするものであるからだ。そして勿論であるが、その題名『ペンギンの憂鬱』というのは憂鬱症のペンギンを指しているのではなく、"危機"に瀕しているヴィクトルを指しているのだろう。

実に面白かった。

#38 『知の技法』を読んだ

小林康夫、船曳健夫『知の技法』 東京大学出版会

学術系の本について感想は非常に書きづらいので適当にツラツラ書いていくことにしました。乱文失礼。

明治時代、民法典論争の「民法出デテ忠孝亡ブ」で有名な穂積八束の兄、穂積陳重の話が出てきた。

コンコーダンスという言葉を初めて知った。元々は旧約聖書新約聖書の照応に用いられた本らしいのだが、今では違うらしい。concordia=照応が語源。ヨーロッパの昔話ということで小澤俊夫の話が少し出てきたが、何となく心当たりがあったので調べたらやはり弟は指揮者の小澤征爾、息子はミュージシャンの小沢健二だった(確かこの親子は共にドイツ文学が専門)。「強い気持ち・強い愛」しか知らないけど。
唯物論と実体論についても本を読みたい。名だけ知っててその実を知らないとはここまで悲しいのか。P105に物語の要素として〈主人公の異常な誕生〉と〈旅立ち〉が挙げられているが、これは竹取物語、桃太郎、ガルガンチュアとパンタグリュエル物語にも言えることなのではないかと思った。こういう通ずるものは面白い。普遍性を発見するのが学問だ、というのは本当なんだろうな。実感はないのだが。

Vladimir Propp『Morphology of folktale』の邦訳があれば是非読みたい。英語に自信が無いというのがこんなにも悲しいとは。共時論って何なんでしょうか?

実体=機能の話は非常によく分かるが、その例えが面白かった。チェスの駒を例に取って、仮に駒を紛失したとしてもライターで代用できるためその実体(機能)は揺るがない、というもの。あれは人間を対象としていたと思うけどサルトル実存主義と似ていやしないか。人間が如何なる職に就こうとその実存は変わらない。「人間は自由の鎖に縛られている」とかいうやつ。実存主義は人間以外も射程に入れているのか?勉強不足がヤバイな。どれもこれも読書不足。自分が悲しいですな。

江戸時代には悪口が個人に投げつけられることはあっても、日本人全体を罵倒することは明治時代以降、国民国家の成立の後にのみありえることであった。(P177)

当然かもしれないがなるほどと思った。

外発的な文明開化、近代化に晒された人々(国民)の抱く精神的外傷に関する話は面白かった。私もそういう国の一市民であるが、これからはこういう視線を持っていて損することはない。ビゴーもピエール・ロチも、気に食わないがそういう気持ちは抑えて俯瞰したい。ところで、白人は劣等感を抱いたことはあるのだろうか。今さっき気づいたのだが、この本は24年前に書かれたものであるから、いま現在はどうなのだろうかとも思う。文学などの分野はともかく地域研究などは結構変わっているのではなかろうか。

私も「ユーレカ!」と叫びたいものです。「ダーターファブラ」とかでもいいけど。

 

#37 『三四郎』感想

夏目漱石三四郎新潮文庫

こんなブログやっておきながら今まで夏目漱石はほとんど読んできませんでした。読んだのは『こころ』だけです。もう内容忘れましたが。

僕はこの作品好きですね。何というか合うものがあるというか。もう何度かは読める。しかし正直感想を書けと言われても何を書けば良いのか分からない作品でもある。最初私は入学したての帝大生の日常が描かれたものだと思い読んでいた。何が言いたいかと言うと、小説=劇(drama)には劇的な(dramatic)非日常がなければならないと考えていたのだが、この非日常には作品に合った(作者が意図した)程度があるのだということが分かった。金閣寺は燃えなければならないし、博士は粘土板に押し潰されて死ななければならない。しかしここまで大胆なdramaである必要はないのかと。確かに帝大生の日常には恋愛失敗談くらいが丁度いいのかもしれない。日常がいつから狂い出したのか、私はよく分からなかったが、260ページ辺りではもう既に時遅しの感があるので今回はここに注目する。「運命」という語がひたすら使われており、ストーリーの調子・テンションが変わる。加速する感じ。以下引用。

三四郎はこう云う風の音を聞く度に、運命という字を思い出す。(P260)

考えると、上京以来自分の運命は大概与次郎の為に整らえられている。しかも多少の程度に於て、和気藹然たる翻弄を受ける様に整らえられている。(P260)

与次郎は愛すべき悪戯ものである。向後もこの愛すべき悪戯ものの為に、自分の運命を握られていそうに思う。(P260)

しばらくこの赤いものを見詰めていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。(P261)

そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。(P261)

三四郎は今までもそうであったが、里見美禰子という女性に好意を抱いている。野々村宗八と美禰子が結婚するつもりなのかどうかにも大いに関心がある。三四郎にとって死活問題であるから。これらのことが余りに明確に姿を現さないので三四郎は考えを巡らせている。考えを巡らす内に"運命"にたどり着いてまた考えている。P261の赤いものというのは少し遠くで起きた火事を赤く映した夜空を指している。恋愛下手な三四郎には上手くいかない人間関係がもどかしくて堪らなかったろう。

これで終わりにするのは尻が切れているというか、私の技量不足なので申し訳ない。この作品を理解するにはあと2回は読まねばならない。今回はここまで。

#36 『赤と黒』感想

スタンダール赤と黒新潮文庫

今回はスタンダールの『赤と黒』です。自分は文学を真面目に勉強しているわけではないので詳しくないですが、前半は不倫文学というやつなんでしょうかね。そんな言葉あるのかな。名前しか知らないですがフローベールの『ボヴァリー夫人』もそうなんですかね。私は恋愛が絡む小説が苦手でならない。恋愛が絡むだけでつい舌打ちが出てしまう。恋愛が嫌いと分かった瞬間大体3割くらいの小説は嫌いということになってしまうんだろうか。仮にそうだとしても実害は余りないので雑談はこの辺にして本題。

この作品の主人公はジュリアン・ソレルという若者。田舎の材木屋生まれだが記憶力と容姿に優れ、ラテン語が堪能なためヴェリエールの町長レーナル家の家庭教師となる。このレーナル家の夫人(レーナル夫人)と不倫関係となってしまうことからこの話が始まる。レーナルの屋敷では、基本的にジュリアンがレーナル夫人を手懐け、手綱を引いていたのだが、あることをきっかけにブザンソンの神学校へ入学させられることとなる。文学に内容の面白さを求めるべきではないと思うのですが、個人的に面白いと思ってるのはこの辺からなんですよね。今までの場面は全てヴェリエールという地方の片田舎だったのに急にブザンソンという都会に変わる。ブザンソン最初の出来事もカフェでウェイトレスに好かれるという何とも軽快なもの。ここからノッてくるんですよ。実際ではどういう分かれ方をしているのか分かりませんが、私が読んだ新潮文庫版では上下巻がそれぞれ第一部と第二部となっており、私は第二部からが本番だと思っている。第一部は言ってしまえば田舎やブザンソン神学校でのジュリアンの暗い下積み時代。しかし第二部はジュリアンの野心を大都会パリで成功させていく出世の物語。こっちの方が面白いですよね。

材木屋の役に立たない息子だったジュリアンはラテン語を解していても材木屋では役に立たない。それが町長レーナルの家庭教師となったかと思うとパリに出たらラ・モール侯爵に見込まれて側近となった。ジュリアンの出世において重要な役割を演じたのがこのラ・モール侯爵であった。ジュリアンは、毎晩痛風で動けない侯爵の話し相手となる役割を任され、見事に侯爵の退屈を凌ぐどころかとても楽しませる。小説の世界であるが出世のチャンスはどこに転がっているか分からないものです。目まぐるしく展開される出世物語に胸踊らせないことがありましょうか。いやあこの辺は楽しいんです本当に。いつの間にかジュリアンは貴族の一員の様になっていた。しかもラ・モール侯爵の娘マチルド嬢も彼へ関心を示し出した。嘗て彼は社交界の貴族全てを憎んでいたのに、マチルド嬢の存在は彼にとっては別だったと言える。マチルドは容姿端麗で才気に溢れ、勇気もある女性だったがその分男勝りでじゃじゃ馬でもあった。しかしジュリアンはマチルドに侮辱されながらも何とかマチルドの気に入り、二人は愛し合った。やがてマチルド嬢とは恋が終わるように見えたが何だかんだで続いていく(感情の起伏が事細かにしるしてあるので大部分割愛)。先ほど愛し合ったというふうに言ったが、正確には半分しか合っていない。互いに愛しつつも軽蔑し合っていたという方が正確だろう。マチルドはジュリアンを愛しつつも身分の低い男を好きになってしまったという負の感情もあり、相手を見下していた。ジュリアンはマチルドの溢れる才気に魅了されつつも貴族の女から好かれているという優越感に浸っていた。ジュリアンが身分の高い女から好かれることで優越感に浸るのはこれが初めてではない。レーナル夫人のときもそうであった。しかし対マチルド恋愛と対レーナル夫人恋愛との決定的な違いは、マチルドの方がはるかに自尊心、独立心が強いということである。レーナル夫人はジュリアン100%で依存していたがマチルドは全くそうではない。この手懐けることの難しさがジュリアンを惹きつけたのだろう。遂にマチルドはジュリアンと駆け落ちする。勿論ラ・モール侯爵は激怒したが、マチルド側と侯爵側との駆け引きの中で、ジュリアンはかつての愛人レーナル夫人がラ・モール侯爵に手紙を書いていたことが知れる。その内容はジュリアンの積年の夢、成り上がり、身分の高い人間になること(この一環として貴族の女性を手懐けるというのもあったのだろう)を崩し兼ねないものだった。夢が叶うと思われた直前に崩されたのだ。これにジュリアンは激怒し、昔懐かしいヴェリエールを訪れ、ミサ中に祈っているレーナル夫人を背後からピストルで撃った。彼には斬首刑が決まり、牢屋に入れられた。彼にとってレーナル夫人は死ななければならなかった。しかしレーナル夫人は一命を取り留め、日に日に快方に向かっているということまでがジュリアンに知らされた。彼は絶望したが、絶望の中でマチルドが牢を訪れるようになり、やがて夫人までもが彼を訪れた。この時、私はこのレーナル夫人を異常な存在だと思った。彼女はジュリアンに撃たれたことを一切憎んでいないのだ。夫人は、ジュリアンがヴェリエールを離れ、ブザンソンの神学校、ラ・モール侯爵邸と渡り着々と名声を勝ち得ようとしていた間、恐らく片時もジュリアンのことを忘れてはいない。そして自分がジュリアンを愛するという人の道に外れた行為とその罪悪感を払拭するためにジュリアンに殺されたいとすら思っていた。そう思っていた折にジュリアンがピストルで自分を撃ったのである。全くどうかしている。刑の数日前からジュリアンの心にはレーナル夫人しかなかったといってもよい。この時には恐らくマチルドの存在は小さくなっていよう。ジュリアンの葬式にはマチルドが出席し、彼女は墓を立派に作った。しかしレーナル夫人はジュリアンが死んだ3日後に3人の子供を抱きながら死んだ。

色々と納得いかない。ジュリアンと共にあるのはレーナル夫人だとでも言うのか。あれだけジュリアンは出世に目がくらみマチルドに惹かれていたというのに。この作品について深く考えるのは頭が疲れそうなので考えない。

初め、私はこの作品について一種嫌悪感を感じていたが、今ではこの作品は、実力ある若者の立志と恋、そして破滅までを巧みに描いたものに思える。しかし、細かい描写が多過ぎるようにも感じる。ああまで細かい描写をするのであれば谷崎潤一郎のように短く簡潔であるべきだとも思うが、出世を長く描くのであれば長くなるのもやむを得ないのかもしれない。

三島由紀夫作品に見る"死"の断片

1925年1月14日、鮮烈な人生を、誰よりも早く駆け抜けた一人の知識人が、四谷に生まれた。三島由紀夫である。彼はほとんど昭和が始まると同時に生まれ、日本が、良くも悪くも様々なことを経験した時期と共に生きた。そしてこの知識人は1970年11月25日、切腹し自ら人生の幕を閉じた。享年45歳であった。

私はどうしてか、この三島由紀夫という男から目を離すことができない。最初に読んだ彼の作品『金閣寺』が余りにも響いたというのもあるだろう。しかしそれだけではないように感じる。それが何であるかは分からないのだが。今回は主に「経験」と「作品」の二つから彼の"死"への志向、眼差しを少し考えていきたい。

1.『豊饒の海』と"死"への眼差し

彼は割腹自殺の直前、つまり最後に『豊饒の海』四作品を書き上げた。『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四つである。これらの作品は順に同時間軸上に置かれている。『春の雪』に登場する松枝清顕が仏教で言う転生を繰り返しそれ以降の作品にも現れるという作りだ(正確には『天人五衰』には現れていない)。そして重要なことは松枝清顕の親友である本多繁邦は全作品を通して登場しているということである。松枝清顕と本多繁邦は『春の雪』においては学習院高等科の学生だった。松枝は侯爵家の一人息子であり将来を約束されていたようなものだった。そして何よりも彼は青白く、あらゆることに冷淡な性格だった。つまり第一段階における"死"は三島にとって非常にセンシティブで美しく清らかなものだった。一種展示物のようでもある。松枝清顕は一作目作中で死んでしまうが、本多繁邦はその後東京大学法学部に進学、大阪控訴院判事となり、それ以降の全ての作品にも登場する。段々見えてきたと思うが、三島由紀夫東京大学法学部卒業であり、専攻は法律学。そして本多も同じく法学を修めている。つまり、本多は作中において三島由紀夫自身を投影した像としての一面があると言えよう。しかしまだこれだけでは早とちりが過ぎる。四作品の中で死と転生を繰り返す松枝清顕は何であるのか。私が考えるに、恐らく"死"そのものである。ここで一つの構図が浮かび上がる。四作品を通じて死と転生を繰り返す松枝清顕"死"を長い間側で見守り、それに関するあらゆる思考を続ける本多繁邦すなわち三島由紀夫自身、というものだ。しかしこれでもまだ足りていない。二作目『奔馬』において"死"はまた異なった様相を呈す。松枝は飯沼勲という右翼青年となって再び本多の前に姿を表したのだ。飯沼は危険すぎる程純粋であり、常に「何事か」を成し遂げようと考えていた。私は読んでいて、飯沼が向かっているものは政治的な目標こそ明らかになっているものの、それは遠近法の消失点の様に、先の見えない試みであるようにも感じた。飯沼は最期、潔白な目標を汚されたとの思いから標的の政治家を殺した後、自刃した。これが二作目における"死"の全てを表していると言えよう。三島は"死"を若々しく謳歌される純粋なものであると同時にそのものの果てしなさから迷いを抱いていたのではないか。この時には冷たく美しい展示物は抑え難い熱を持って暴れ出している。三作目『暁の寺』で表現された"死"はいよいよ三島自身へ接近する。インドの月光姫として生まれ変わった松枝は非常に魅力的な妙齢の女性として描かれる。若々しく、瑞々しい肉体美を誇って本多繁邦を魅了する。かつて松枝清顕、飯沼勲に共通していた脇腹に三つ並んだ黒子が存在するか否かを確かめるため、老いた本多は月光姫の部屋を覗き見る。確かに月光姫には黒子があった。もう分かっていると思うが、三島は"死"に魅了されているのかもしれない。これに関して強い確信は無いのだが、くだらないブログ記事として聞き流して下され。そして最後、『天人五衰』に現れる"死"を見ていく。見ていきたいのだが、これが非常に難しい。『天人五衰』において、老いた本多は偶然訪れた港で安永透という16歳の少年と出会う。彼の脇腹には三つの黒子があった。本多はこの少年を松枝の生まれ変わりと信じて養子に迎え入れた。しかし安永は次第に横暴になり本多に暴力を振るうようになる。暫くして安永は自分が松枝清顕の転生者と信じられていたからこそ本多が迎え入れたということを知る。転生者であるならば20歳で死ななければならないことも知った安永は服毒自殺を図るが死ねなかった。安永は転生した後の松枝ではなかったのだ。私はこの四作目『天人五衰』には疑問を抱いていた。これでは全く意味が通っておらず分からない。しかしこのことについては確か澁澤龍彦三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫)の中に記述があり、三島が当初違った結末を書こうとしていた旨が書かれている。私の疑問は間違っていなかったのかもしれないが四作目入稿日に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺されては読者の疑問は永遠に解けないではないか。本人がもし生きていたとしてもその点の説明は無いだろうと思うが、死んでしまうのは何よりも残念である。ともかく、長々と説明してきたが、『豊饒の海』で描かれた"死"は当初美しく冷たかったが熱を持って暴れだしたかと思うと女性のように柔らかく三島を魅了していく、というものだった。

2.『金閣寺』と"崩壊≒死"

鹿苑寺の学僧であった溝口は吃音に悩んでいた。彼の色褪せた世界の中で一際輝きを放っていたのが金閣寺であった。しかし現実の金閣寺には父から伝えられていたほどの美しさは無く、溝口は困惑した。自分が長年憧れ、心の拠り所としてきた金閣寺が美しくない筈がない、と。そして溝口はついに金閣寺に火を放ち、その美を永遠に自分の中に閉じ込めようとした。「金閣寺がこんなに美しくない筈はないから元の美しい金閣にしてやろう」という心が感じられる。この作品に描かれるのは世間に馴染めない溝口の鋭い狂気だ。狂気は言いすぎかもしれないが金閣への異常な執着、そして本来在るべき場所に戻そうとする試みだ。思い出さないだろうか。三島は"死"にこそ美の極致があり、その一瞬の美の昇華をこそ望んでいたということを。『金閣寺』作中において金閣寺に火を放った後の溝口については詳しく描かれていない。小説である以上金閣寺が燃えるシーンにクライマックスを持ってきた、というのは勿論あるだろう。しかしそれ以前に、三島は"崩壊の瞬間"="死の瞬間"="美の極致"にしか興味が無かったとは考えられないか。勿論金閣寺を燃やした溝口はそれより先の時間を過ごせるだろう。しかし死んだ人間はそれより先の時間は過ごせない。有終の美とでもいうのだろうか、寧ろ三島の美意識においてその先の時間は過ごしてはならないのだ。三島は金閣寺そのものなのだ。

3.『午後の曳航』と英雄の"死"

この作品の主人公は横浜で舶来品を扱う店の息子。やがて塚崎竜二という船乗りと自分の母親が良い関係になり出した。少年は塚崎の中に栄光や大義のために海を行くカリスマ性を見出す。そうして竜二を尊敬していた少年だが、やがて竜二は母の経営する店の手伝いや舶来品に関する知識をつけるようになった。少年はこのことに深く失望した。そして友人ら数人とともに竜二を山にある洞穴に呼び出し、睡眠薬入りの紅茶を飲ませる。竜二は少年らが理想としていた元英雄だった。しかしその英雄が「家庭に入る」「店の手伝いをする」などという裏切りは断じて許されない。そのため少年たちは英雄を殺すことで本来在るべき場所に戻そうとしたのだ。英雄は永遠に英雄でなければならないとも言うべきか。もう私が何を言おうとしているか分かるでしょう。塚崎竜二は、美しい姿を失った金閣寺であり、三島由紀夫自身でもあるのだ。

4.三島が体現した"美"

三島由紀夫が死に対してどのような考えを持っていたかは上で説明してきた。ここからは彼の作品ではなく実生活の話を少ししようと思う。彼は30歳のときボディビルを始め、割腹自殺する45歳まで続け通した。これも澁澤龍彦三島由紀夫おぼえがき』の中で書かれていたものと思うが、三島由紀夫切腹する為に腹筋を鍛え上げていたというのだ。贅肉を極限まで無くし、逞しく隆々と鍛えられた腹筋に自ら刀を突き刺すその瞬間、三島自身が美の極致、頂点、美の体現となり、時間を永遠に断ち切る命懸けの試み。彼の"死"にはそういう意味が込められていたのだ。そして彼が意識してか意識せずしてか、彼は自身の小説の中で少しずつ自らの死と美意識を晒していた。私は、自分の敬愛する作家がこのような考えに至ってしまったことを実に残念に思うと同時に、彼の実現しようとした美を全力で見たいと望む。彼の行動の唯一の失敗を挙げるとすれば、彼が切腹によって為そうとした美がその類い稀な才能によって一瞬ではなく永遠のものとなってしまった点だろう。私は、三島が既に存在していない世界の、一瞬の美の後に残された悲しい世界の一人の読者として、これからも三島が遺した美を考え続けたいと思う。

 

尤も、三島は美を"遺した"などとは微塵も思っていないだろうが。