辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#32 『ゾウの時間 ネズミの時間』感想

本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間』 中公新書

こんにちは、「やし酒のみ」の感想をもう少し真面目に書けばよかったと後悔している辣油です。あれは流石に短すぎますよね。でも大目に見て下さい。仕方ないですよ、今まで幻想文学読んだことないんですから。免疫が全く無い状態でああまで物語の展開が読めないと脳みそがびっくりするんです。小説は普通情景を思い浮かべながら読み進めると思うんですけど、”体がバラバラになって頭蓋骨だけになった紳士”なんて考えたことありますか?完全に「は?」でした。しかしエイモス・チュツオーラ氏の作品はまだ長編が残っているので心して読まねば途中断念という辛い結果を招くことになる。嫌だなあ。読書を途中で断念するときって本当悔しくないですか。自分は真面目に本を読み出してから一度だけ断念したことがありました。アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」です。確か角川書店だったと思いますが、翻訳文っぽさが強すぎる。英語に慣れてない生徒の英文和訳答案みたいなガチガチのやつです。(もうちょっと何とかしてくれよ…)。角川のおエロいさんがこのブログを読んでくれることを祈るばかりです。ところで生意気にもブログのデザインを変えてみました。なんか良いデザインが無いか探してたら良さそうなものがあったので早速採用。見にくいと思ったら適当にまた変えます。

今までの記事からしてバリバリ文系の自分がこんな本を読むなんて驚きました?驚いたでしょう、高校時代の課題図書で買わされたまま積読になってました。ここで発掘されてよかったね。生物分野は、殆ど興味無い自然科学の中ではまだ好きな方かもしれません。一番好きなのは何てったって天文分野ですよ。天文分野で一番好きな言葉はこれですかね。

「好きな言葉は、ダークマターです。」

湘南美容外科クリニックかよ。完全に厨二です。しかもダークマター全然興味ないですし。本当に好きな言葉は連星パルサーです。そういえば過去に「宇宙論入門」という本を読みましたが、てんで分かりませんでした。最近読んだ構造主義の本ぐらい何言ってるのか分からなかった。哲学に近い分野って本当頭使いますね。有名な哲学者の提唱したこととかを見ると思いますが、あの方々完全に雲の上ですよね。人間界と離れすぎだろ。

本題です。この本は題名の通り生物のサイズに主眼が置かれています。知り合い曰く少しは新聞とかでも紹介されてたらしい。最初に書かれてたことを紹介すると最初だけしか読んでないんじゃないかって思いますけど、安心してください。そんな夏休み後半に無理やり親から本読まされてる小学生みたいなことしてませんよ。生物学には「島の規則」と呼ばれる規則性があるらしい。海によって大陸と隔てられた島々では大陸での大きな生物種がサイズダウンし、大陸での小さな生物種がサイズアップするというもの。面白そうでなかなかそそりますネ。自分の貧弱なオツムにはこれくらいしか残ってませんが結構面白い本でした。生物読み物に最適だと思います(なんだこの感想)。

#31 『はじめての構造主義』感想

橋爪大三郎『はじめての構造主義』 講談社現代新書

最近画像をアップするのが億劫に感じてきたので著者・出版社を明記することにしました。題名が被ってる書物なんて世の中幾らでもありそうですからどの本を読んだかはきちんとアクセスできた方が良いと思いました。これからはそうします。

この本は確か高校1年か2年の時に課題図書として買わされたものですが、一通り読んで思いました。「難しすぎるだろ」。高校生時代の自分なんてまだまだペーペーですし、何故私の母校は生徒に構造主義を学ばせようと思ったんだろうか。学ぶまで行かなくとも、触れるだけでも違うといった感じなんでしょうか。当時の私には触ることすら難しいんではなかろうか。でも中学の頃から文化人類学とか民俗学みたいなものには興味があったので時差はあれど、今読めているなら幸せです。

皆さんがどうか分からないんですが、きちんと勉強したい本が縦書き(新書とか文庫とか)だと結構キツイと感じるのは僕だけでしょうか。この本にも途中図とか数式とか出てきますが本当縦書きだと見づらい。文句じゃないですからね、文句じゃない。何でもいいですが、私がこの本を読み直してるのには訳があります。Levi Straussの「悲しき熱帯」を読むための前哨戦なのです。これもいつ買ったのかよく覚えてませんが確実に一年以上積まれたままになっている。そんな感じです。

この本は小説でもなんでもないので正直感想も何もないんですが、部族社会における婚姻のタブーの部分は結構面白かったです。ここでは詳しいことは説明しませんが、カリエラ型の婚姻とかは本当よく出来ているなあと思いました。あとはやっぱり数学の強い人間に生まれたかったなあと痛感しましたね。ひとえに努力を怠っているだけかもしれませんが、ここには努力を怠っているという事実しかないので。グダグダですがこの程度しか書くことが無い。それではさようなら~。

#30 『英語達人列伝』感想

斎藤兆史『英語達人列伝』 中公新書

どうもどうも。思ったんですけど、本が好きな人って何日に1冊のペースで読めるんですかね?まあこんな疑問は日に3度くらい考えますけど、高校時代、友人の担任が週に3,4冊のペースで読むべきだと言っていたらしいのですが、普通にのほほんと暮らしている社会人では絶対不可能ですよね。自分だったら常に読書欲に渇望していなければ無理です。今日3月5日、色々ネットサーフィンしながら読みたい本をメモしていったら27冊になりました。いい加減にしてくれ、1日にせいぜい新書か短編小説1冊程度しか読めない自分がたった1日で24冊の本をメモしている。いつになったら終わるんだ。しかし毎月毎月、岩波書店講談社も筑摩もみすず書房中央公論新社もよくここまで面白そうな本を出版してくれてますよね。特に中公新書。今回の「英語達人列伝」も中公新書ですが、誰か偉い人が言ってましたよ。「中公新書は数十年後、確実に名著となる本を出して攻めまくっている」と。そうなんですかね?自分はエロくないので詳しいことは分かりませんが、確かに書店の中公新書棚を見ると垂涎。気づいたら床に涎と我慢汁がダラダラ。中公新書の表紙は深緑色なので白濁液を掛けちゃったらバレちゃうね❤行きつけの所の書店員さん、ごめんなさいね★

ということで今回も以前から目を付けていた本です。最近自分の英語力を上げたいと思っているんですが思ってるだけで行動には移してない。著者は斎藤兆史氏という日本の英米文学者で、現在は東大教養学部の教授をやっておられるんですね。立派な方だ…。この本は本当に面白くて、誰でも一度は聞いたことのある人物を卓越した英語力、英語遍歴の切り口から探っていくというもの。日本美術の復興に尽力した岡倉天心終戦時日本においてアメリカ人から「従順ならざる唯一の日本人」と言われた白洲次郎などの逸話、経歴が書かれている。その中に紹介されている10人の達人の内、西脇順三郎の項でイスラム学者井筒俊彦氏に関する記述を見つけました。井筒俊彦氏といえばピンと来る人がいると思います。岩波文庫から出ているコーランは全てこの人の執筆です。岩波以外にもイスラム関係の本で名前を見たことがあります。自分はまだ井筒氏の著作を読んでいませんが、この方も大変な英語話者であったそうですね。拙いながらも単語同士がつながったのは嬉しいことです。

この本を読んで、自分は真に反省しなければならない、と思いました。今までの自分の英語勉強が如何に浅はかで愚かなものであったのかを思い知った。自分にはこの本に書かれているような達人になる資質はありません。にしても自分は腑抜けが過ぎる。ウトウトしてる時にビンタされた感じ。歴史の教科書に載るような人がどのように血の滲むような努力(尤も、本人達は努力と認識していないだろうが)をしてきたのか良く分かった。しかもここに書かれているのは英語に関してのみ。本当に尊敬します。

個人的には幣原喜重郎の話が一番グッときました。この項の冒頭に書かれていた著者斎藤先生の一節を引用したい。 

仮に自分の属している共同体の運命が自分の英語力に懸かっていると考えてみていただきたい。その重圧に耐えられるだけの英語力を持っている人間がどのくらいいるだろうか。 

日本史を習ったことのある人なら誰でも知っている幣原喜重郎、戦前戦後日本の外交、命運をその背に負っていたと言っても過言ではない。「協調外交」を掲げた彼は、戦前、幣原自身が必死に守ろうとした国内からも「軟弱外交」と非難された。結局彼のその働きの甲斐虚しく、日本は戦争の道を進んでしまったが、その後始末までもが彼の外交手腕、ひいては英語力に懸かっていたことを考えると教科書に載っている彼の名前も輝いて見える。これは若気の至りであるが、自分は高校時代軍歌を流しながら戦前日本史の勉強をしていた。その時何度幣原に舌打ちしたことか、よく覚えている。しかしこの本を読んで、歴史の中の幣原喜重郎と個人としての幣原喜重郎とでは全く異なって感じることができる。

幣原の項が特に気に入ったので沢山書きましたが全て良かったです。中公新書、侮れない。

#29 『魂をゆさぶる歌に出会う』感想

ウェルズ恵子『魂をゆさぶる歌に出会う』 岩波ジュニア新書

以前話したかどうかは覚えていませんが、自分はラップやヒップホップの様なアングラに近い文化を学問的に捉える学者を探していました。本屋はうろついてみるもんですね。居ましたよ居ました、あなたを探しましたよ全く。ウェルズ恵子氏という立命館大学文学部教授で、自分の探していたようにアングラ文化が専門な訳ではないですが、英米文学が専門で、その研究の中で黒人文化というヒップホップに近い文化に行きついたようです。特に口承文化に精通しているのかな。本当に面白い作品は寝る間を惜しんで読んでしまうものですが、この本もそういった一冊でした。岩波ジュニア新書ということもあって文章が軽かったのもあると思います。ちなみに過去に一日で読んでしまった作品は三島由紀夫潮騒」でした。(「金閣寺」は一週間掛かった)

自分がラップを好きになった最初は小学校高学年でした。しかしずっとラップ一筋という生粋なラッパーなわけではありません。何故か同じ時期にはクラシックも好きでしたし、中学に入ってからはマイケル・ジャクソンもボンジョヴィもクイーンも好きでした。放送委員では昼の放送に必ずバッヘルベルを流しましたし。しかしどの曲のインパクトもラップに比べられるものではない。2年に1度くらいで真に心を打つラップと出会う。高校在学中はSOUL'd OUTとエミネムだった。ここでエミネムを知ったことで映画「8mile」を発見したんですね。ここが自分が黒人ヒップホップ文化に興味を持った切っ掛けだったと言える。しかし「8mile」、本当にイカす映画ですよね。デトロイトの市外局番313とか、シェルターと呼ばれる場所でのフリースタイルバトルとか、本当面白かった。是非見てみて下さい。自分が最も好きな映画1位を「モテキ」「ニューシネマパラダイス」と争っているものに「ブロンクス物語」というのがあります。ロバート・デ・ニーロの初監督作品だったかな、そんな感じのやつ。ニューヨークのブロンクス区というイタリア系マフィアが居る地区の話。これにも黒人との争い、人種の壁が一つの要素になっており、主人公のカロジェロは黒人の女の子と恋に落ちる。これにもドゥーワップという音楽を歌う黒人数人がしばしば登場する。そんな感じで、自分の記憶の中にはちょいちょいイカす黒人の姿がある。以上のことが自分を今回の本に惹きつけた主なものなのでしょう。

この本には読み手全員にあるだろう記憶の中に黒人文化のルーツを説明する箇所が幾つもある。マイケル・ジャクソンムーンウォークのルーツは鎖で足を繋がれた黒人奴隷の歩き方にあるとか、ビリージーンの歌詞は当時、黒人がよく強姦罪で濡れ衣を着せられて刑務所に送られたとか、こういうのを教養って言うのかな。教養であってほしい。早く次の本を読まなければならないので詳しいことはここで書くことができない。

本当に良い本だった。

#28 『やし酒のみ』感想

エイモス・チュツオーラ『やし酒のみ』 岩波文庫

今回は私が恋い焦がれて3世紀、念願のアフリカ幻想文学という超マイナー分野、エイモス・チュツオーラの作品、「やし酒飲み」です。一部の人からするとマイナーでもなんでもないのかも。しかし設定からもう好きなんですよ。やし酒大好きのアル中が、死んだやし酒作りの名人をあの世から取り返すためにあの世まで旅するというとてもユーモラスなもの。憎めませんよね。序盤から死神を捕まえたり結婚したり色々ありますけど、正直言って話の展開の仕方が一様になってしまっている気がする。西アフリカの呪文、呪術の呼び名で「ジュジュ(juju)」というのがあるんですが、この物語ではこのジュジュのせいでデウス・エクス・マキナになっている。自分はこの物語の情景を楽しんでいますが、正直何を楽しめばいいのかも分からない。しばしば出てくる奇妙な生き物に対して策を練るかジュジュを使うかして切り抜ける、これの繰り返しが多すぎる。日本語でたった200ページの本なのにもう読むのがつらくなってくる。元々日本語で書かれた文章ならば言い回しや言葉の持つ美しさなど楽しめる箇所は多くありますが、この作品は元々英語で書かれているらしいので英語で読むのが一番なんでしょうかね。ナイジェリア人作家が英語で書くという作業も一種のクレオール化でしょう。しかし詩人のディラン・トーマスはこの英語を「簡潔、凝縮、不気味かつ魅力的」と評しているらしいので捉え方は人それぞれですね。あとがきを読んだ感じチュツオーラは相当な苦学の人なんですね。学校に通いたくても主人に仕えなければならない、学費を出してくれていた唯一の人、父もすぐに亡くなってしまう。本当に聞いているだけで凄い。感想が尽きたので今回はこの辺でさようなら。

 

映画「モテキ」考

テンション上がってうっかり万葉考みたいなタイトルを付けてしまいました、辣油です。今までは本についての内容ばかりで退屈だったでしょうが今回は私が愛して、むしろ絶対に離れることが出来ない映画、「モテキ」に関して話したいと思います。久しぶりにGE〇で借りて見たんですよ。これは漫画原作の作品で一度ドラマ化したものを主人公の藤本幸世役に森山未來を起用するという形をベースとして映画化している。「モテキ」の魅力は洗練されたJ-POPのBGM、多いくらいの適度な下ネタ、ふんだんに盛り込まれたクソサブカル要素などにあります。自分はビレヴァンとか行っちゃうような奴は往々にして小物だというイメージ、信条を持っているので絶対に行かないですが映画の主人公が行っていると魅力的に見える。下北沢のビレヴァンとかその最たるものなんではないでしょうか。つーかサブカルってなんだよ。下北沢ってどこだよ(すっとぼけ)。まあいいや。

自分はモテキの原作を知りませんが、取り敢えず主人公藤本(セカンド)童貞の周りに四人の美女が現れるという謎シチュはドラマ、映画に共通しています。きっと原作でもそうなのでしょう。映画版での美女は、みゆき(長澤まさみ)、るみ子(麻生久美子)、愛(仲里依紗)、素子(真木よう子)となっています。何故この4人の中に全くそういう関係にならない素子が入っているのかは全く謎です。まあ愛ともそういう関係にはならないので、メインの構図は藤本・みゆき・るみ子の三角関係+αといえる。藤本はみゆきが好き、るみ子→藤本が好き、みゆき・るみ子は友人となっています。ここでは映画のストーリー進展に重要な意味を成すいくつかのみを説明します。みゆきは既婚者の彼氏(金子ノブアキ)と同棲しているというクソビ〇チ。このことを知った藤本は確実に嫉妬、複雑な感情になることでしょう。そういうこともあってか、るみ子から告白された際に一夜を共にしてしまう藤本。ここに見ることが出来るのは♂特有の「ヤリたい」感情と「自分を好きになってくれる人ならいいんじゃね」感情だと思います。しかしこういうことをした後で藤本はるみ子を裏切って付き合いを断る。なんて贅沢な(セカンド)童貞ライフなんでしょうか、自分もこんな性活したいなあ。るみ子はさぞ落ち込んでるだろうと思われたのですがこいつは次のコマで何故か別の男と寝ている。この映画が公開されたとき友人と映画館に見に行きましたが、やっぱり麻生久美子は最後までビッ〇だった、という事で意見が一致しました。演者の風評被害ですね。話を戻します。藤本はライブ会場で偶然来ていたみゆき・るみ子と会う。その時この童貞は愛するみゆきに「るみ子と致した」旨を伝えてしまう。映画館でこんなにも馬鹿野郎何やってんだと歯を食い縛ったことはありません。当たり前ですがここで藤本はみゆきに嫌われてしまう。しかしこの一連の行動をしてしまった童貞の気持ちもよく考えれば見えてくる。彼の愛する人はチャラ既婚者と同棲しているのだ。許せるかこんなん、という気持ちがあるでしょう。みゆきの同棲は藤本からすれば“不貞”なわけです。そうすると自分も何か不貞を働かなければつり合いが取れない。そしてみゆきの同棲を自分が知っているように、みゆきも自分の“不貞”を知ってもらわなければならないのです。あんな一見した性欲映画の中にこんな心があるなんて誰か考えましたかね?大根仁監督の次が僕なんではないですか?だいぶ端折りますが、映画の最後で二人は抱き合う。恐らくですが、この藤本の、“みゆきの不貞の清算”がなければこの恋愛は成就しなかったのではないかと思います。二人が精神的に本当の意味でフェアになることが重要だった。めでたしめでたし、ではない。愛する人と結ばれないまま別の男と寝たまま不完全燃焼を起こして一酸化炭素出しまくってるるみ子、不倫をして離婚させられチャラ男に放置された嫁と娘、この映画には成仏していないままの魂がまだまだ多い。私が成仏させてあげたい……

#27 『野火』感想

大岡昇平『野火』 新潮文庫

今回は戦争作品の金字塔、大岡昇平の「野火」を読みました。金字塔といっても自分はいくつも戦争作品を読んだ訳ではなく、今回が最初です、アハハ。金字塔という言葉を使いたかっただけなんですね。お目汚し失礼。自分はこれがどんな作品と思ってこの本を読み始めたのかよく覚えていませんが、(何故か面白い作品だと思っていた)一言で感想を言うなら、“鮮烈”。この一言に尽きると思います。私が今まで読んだ本の中で最も心にグッと来たのは三島由紀夫金閣寺」でしょうが、この「野火」は実際に本人の経験に基づいているというのが一段とリアリティを増している。何を普通とするのかは良く分かりませんが、普通小説の文章というのは緩急があるものだと思います。しかしこの作品の全てが生死に関わるものであり、全てが“急”であると言える。正直、この作品に関する感想は何とも言い難いです。よく教科書で見る戦争とは全く異なった戦争の形が描かれている。所謂、上層部の名前ある軍人達の作戦指揮ではない、白兵戦の部分です。常に食料は底を突きそうな状態にあり、フィリピンの熱帯の中、どこに向かえば良いのかも分からず独りどこかへ往かねばならない、絶望。この孤独と絶望の中生きる目的を見出すのは奇跡と云うに近いであろう。主人公である田村は、飢えの余り自分の身体に付いた山蛭すら口にした。途中、自分と似た境遇の永松という病兵と合流する。彼は“猿”の干し肉を食っていた。銃で猿を撃ち、肉を干すのだという。田村もこの“猿”の干し肉を食べた。しかし猿というのは熱帯雨林の中迷って独りになった日本兵のことであり、彼らはこれを撃って食べていた。ここで田村のカニバリズムと永松のカニバリズムには“彼ら”とひとまとめにはできない大きな差がある。干し肉を人肉と認識しているか否かという差だ。少し端折るが、結果的に田村は最後まで人肉を意識して食すことが出来なかった、といえる。かつて田村は道の途中に転がっている日本兵の尻の肉がえぐられていることに気づき、限界の中では同属のヒトが食料になり得ることを知っていた。それでも、食料とは認識しなかった、できなかった。田村が永松と合流するとき、田村は獲物として永松に銃口を向けられていた。一歩間違えば自分が“猿”になっていたかもしれぬのだ。こういう理由もあるのかもしれない。しかしまだ原因はありそうなものである。海岸にたゆたう死体をまざまざと見たことか、教会で逢瀬を重ねていた女を射殺したことか、田村がかつて信仰していたキリスト教の教えのためか。何なのかは自分には良く分からない。

主人公は肺病のために部隊を追われたことがきっかけで独り彷徨うことになった。鬱蒼と茂る木々と先の見えない絶望の中、彼の目についた「野火」は、その下には人間がいるかもしれないという期待であり、敵対するフィリピン人、アメリカ人であったとしても、降参の意思を表すことで自分の生きる道を開く希望であった。それは戦争が終わり、精神病院に入ってもなお田村の目に映る記憶となっていた。彼が見た野火が敵軍の狼煙であったとしても、フィリピン人が芋を煮ている煙であったにせよ、彼を含めた彷徨う日本兵達にとっては心の拠り所であったのだろう。