辣油の四方山記

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

#29 『魂をゆさぶる歌に出会う』感想

ウェルズ恵子『魂をゆさぶる歌に出会う』 岩波ジュニア新書

以前話したかどうかは覚えていませんが、自分はラップやヒップホップの様なアングラに近い文化を学問的に捉える学者を探していました。本屋はうろついてみるもんですね。居ましたよ居ました、あなたを探しましたよ全く。ウェルズ恵子氏という立命館大学文学部教授で、自分の探していたようにアングラ文化が専門な訳ではないですが、英米文学が専門で、その研究の中で黒人文化というヒップホップに近い文化に行きついたようです。特に口承文化に精通しているのかな。本当に面白い作品は寝る間を惜しんで読んでしまうものですが、この本もそういった一冊でした。岩波ジュニア新書ということもあって文章が軽かったのもあると思います。ちなみに過去に一日で読んでしまった作品は三島由紀夫潮騒」でした。(「金閣寺」は一週間掛かった)

自分がラップを好きになった最初は小学校高学年でした。しかしずっとラップ一筋という生粋なラッパーなわけではありません。何故か同じ時期にはクラシックも好きでしたし、中学に入ってからはマイケル・ジャクソンもボンジョヴィもクイーンも好きでした。放送委員では昼の放送に必ずバッヘルベルを流しましたし。しかしどの曲のインパクトもラップに比べられるものではない。2年に1度くらいで真に心を打つラップと出会う。高校在学中はSOUL'd OUTとエミネムだった。ここでエミネムを知ったことで映画「8mile」を発見したんですね。ここが自分が黒人ヒップホップ文化に興味を持った切っ掛けだったと言える。しかし「8mile」、本当にイカす映画ですよね。デトロイトの市外局番313とか、シェルターと呼ばれる場所でのフリースタイルバトルとか、本当面白かった。是非見てみて下さい。自分が最も好きな映画1位を「モテキ」「ニューシネマパラダイス」と争っているものに「ブロンクス物語」というのがあります。ロバート・デ・ニーロの初監督作品だったかな、そんな感じのやつ。ニューヨークのブロンクス区というイタリア系マフィアが居る地区の話。これにも黒人との争い、人種の壁が一つの要素になっており、主人公のカロジェロは黒人の女の子と恋に落ちる。これにもドゥーワップという音楽を歌う黒人数人がしばしば登場する。そんな感じで、自分の記憶の中にはちょいちょいイカす黒人の姿がある。以上のことが自分を今回の本に惹きつけた主なものなのでしょう。

この本には読み手全員にあるだろう記憶の中に黒人文化のルーツを説明する箇所が幾つもある。マイケル・ジャクソンムーンウォークのルーツは鎖で足を繋がれた黒人奴隷の歩き方にあるとか、ビリージーンの歌詞は当時、黒人がよく強姦罪で濡れ衣を着せられて刑務所に送られたとか、こういうのを教養って言うのかな。教養であってほしい。早く次の本を読まなければならないので詳しいことはここで書くことができない。

本当に良い本だった。

#28 『やし酒のみ』感想

エイモス・チュツオーラ『やし酒のみ』 岩波文庫

今回は私が恋い焦がれて3世紀、念願のアフリカ幻想文学という超マイナー分野、エイモス・チュツオーラの作品、「やし酒飲み」です。一部の人からするとマイナーでもなんでもないのかも。しかし設定からもう好きなんですよ。やし酒大好きのアル中が、死んだやし酒作りの名人をあの世から取り返すためにあの世まで旅するというとてもユーモラスなもの。憎めませんよね。序盤から死神を捕まえたり結婚したり色々ありますけど、正直言って話の展開の仕方が一様になってしまっている気がする。西アフリカの呪文、呪術の呼び名で「ジュジュ(juju)」というのがあるんですが、この物語ではこのジュジュのせいでデウス・エクス・マキナになっている。自分はこの物語の情景を楽しんでいますが、正直何を楽しめばいいのかも分からない。しばしば出てくる奇妙な生き物に対して策を練るかジュジュを使うかして切り抜ける、これの繰り返しが多すぎる。日本語でたった200ページの本なのにもう読むのがつらくなってくる。元々日本語で書かれた文章ならば言い回しや言葉の持つ美しさなど楽しめる箇所は多くありますが、この作品は元々英語で書かれているらしいので英語で読むのが一番なんでしょうかね。ナイジェリア人作家が英語で書くという作業も一種のクレオール化でしょう。しかし詩人のディラン・トーマスはこの英語を「簡潔、凝縮、不気味かつ魅力的」と評しているらしいので捉え方は人それぞれですね。あとがきを読んだ感じチュツオーラは相当な苦学の人なんですね。学校に通いたくても主人に仕えなければならない、学費を出してくれていた唯一の人、父もすぐに亡くなってしまう。本当に聞いているだけで凄い。感想が尽きたので今回はこの辺でさようなら。

 

映画「モテキ」考

テンション上がってうっかり万葉考みたいなタイトルを付けてしまいました、辣油です。今までは本についての内容ばかりで退屈だったでしょうが今回は私が愛して、むしろ絶対に離れることが出来ない映画、「モテキ」に関して話したいと思います。久しぶりにGE〇で借りて見たんですよ。これは漫画原作の作品で一度ドラマ化したものを主人公の藤本幸世役に森山未來を起用するという形をベースとして映画化している。「モテキ」の魅力は洗練されたJ-POPのBGM、多いくらいの適度な下ネタ、ふんだんに盛り込まれたクソサブカル要素などにあります。自分はビレヴァンとか行っちゃうような奴は往々にして小物だというイメージ、信条を持っているので絶対に行かないですが映画の主人公が行っていると魅力的に見える。下北沢のビレヴァンとかその最たるものなんではないでしょうか。つーかサブカルってなんだよ。下北沢ってどこだよ(すっとぼけ)。まあいいや。

自分はモテキの原作を知りませんが、取り敢えず主人公藤本(セカンド)童貞の周りに四人の美女が現れるという謎シチュはドラマ、映画に共通しています。きっと原作でもそうなのでしょう。映画版での美女は、みゆき(長澤まさみ)、るみ子(麻生久美子)、愛(仲里依紗)、素子(真木よう子)となっています。何故この4人の中に全くそういう関係にならない素子が入っているのかは全く謎です。まあ愛ともそういう関係にはならないので、メインの構図は藤本・みゆき・るみ子の三角関係+αといえる。藤本はみゆきが好き、るみ子→藤本が好き、みゆき・るみ子は友人となっています。ここでは映画のストーリー進展に重要な意味を成すいくつかのみを説明します。みゆきは既婚者の彼氏(金子ノブアキ)と同棲しているというクソビ〇チ。このことを知った藤本は確実に嫉妬、複雑な感情になることでしょう。そういうこともあってか、るみ子から告白された際に一夜を共にしてしまう藤本。ここに見ることが出来るのは♂特有の「ヤリたい」感情と「自分を好きになってくれる人ならいいんじゃね」感情だと思います。しかしこういうことをした後で藤本はるみ子を裏切って付き合いを断る。なんて贅沢な(セカンド)童貞ライフなんでしょうか、自分もこんな性活したいなあ。るみ子はさぞ落ち込んでるだろうと思われたのですがこいつは次のコマで何故か別の男と寝ている。この映画が公開されたとき友人と映画館に見に行きましたが、やっぱり麻生久美子は最後までビッ〇だった、という事で意見が一致しました。演者の風評被害ですね。話を戻します。藤本はライブ会場で偶然来ていたみゆき・るみ子と会う。その時この童貞は愛するみゆきに「るみ子と致した」旨を伝えてしまう。映画館でこんなにも馬鹿野郎何やってんだと歯を食い縛ったことはありません。当たり前ですがここで藤本はみゆきに嫌われてしまう。しかしこの一連の行動をしてしまった童貞の気持ちもよく考えれば見えてくる。彼の愛する人はチャラ既婚者と同棲しているのだ。許せるかこんなん、という気持ちがあるでしょう。みゆきの同棲は藤本からすれば“不貞”なわけです。そうすると自分も何か不貞を働かなければつり合いが取れない。そしてみゆきの同棲を自分が知っているように、みゆきも自分の“不貞”を知ってもらわなければならないのです。あんな一見した性欲映画の中にこんな心があるなんて誰か考えましたかね?大根仁監督の次が僕なんではないですか?だいぶ端折りますが、映画の最後で二人は抱き合う。恐らくですが、この藤本の、“みゆきの不貞の清算”がなければこの恋愛は成就しなかったのではないかと思います。二人が精神的に本当の意味でフェアになることが重要だった。めでたしめでたし、ではない。愛する人と結ばれないまま別の男と寝たまま不完全燃焼を起こして一酸化炭素出しまくってるるみ子、不倫をして離婚させられチャラ男に放置された嫁と娘、この映画には成仏していないままの魂がまだまだ多い。私が成仏させてあげたい……

#27 『野火』感想

大岡昇平『野火』 新潮文庫

今回は戦争作品の金字塔、大岡昇平の「野火」を読みました。金字塔といっても自分はいくつも戦争作品を読んだ訳ではなく、今回が最初です、アハハ。金字塔という言葉を使いたかっただけなんですね。お目汚し失礼。自分はこれがどんな作品と思ってこの本を読み始めたのかよく覚えていませんが、(何故か面白い作品だと思っていた)一言で感想を言うなら、“鮮烈”。この一言に尽きると思います。私が今まで読んだ本の中で最も心にグッと来たのは三島由紀夫金閣寺」でしょうが、この「野火」は実際に本人の経験に基づいているというのが一段とリアリティを増している。何を普通とするのかは良く分かりませんが、普通小説の文章というのは緩急があるものだと思います。しかしこの作品の全てが生死に関わるものであり、全てが“急”であると言える。正直、この作品に関する感想は何とも言い難いです。よく教科書で見る戦争とは全く異なった戦争の形が描かれている。所謂、上層部の名前ある軍人達の作戦指揮ではない、白兵戦の部分です。常に食料は底を突きそうな状態にあり、フィリピンの熱帯の中、どこに向かえば良いのかも分からず独りどこかへ往かねばならない、絶望。この孤独と絶望の中生きる目的を見出すのは奇跡と云うに近いであろう。主人公である田村は、飢えの余り自分の身体に付いた山蛭すら口にした。途中、自分と似た境遇の永松という病兵と合流する。彼は“猿”の干し肉を食っていた。銃で猿を撃ち、肉を干すのだという。田村もこの“猿”の干し肉を食べた。しかし猿というのは熱帯雨林の中迷って独りになった日本兵のことであり、彼らはこれを撃って食べていた。ここで田村のカニバリズムと永松のカニバリズムには“彼ら”とひとまとめにはできない大きな差がある。干し肉を人肉と認識しているか否かという差だ。少し端折るが、結果的に田村は最後まで人肉を意識して食すことが出来なかった、といえる。かつて田村は道の途中に転がっている日本兵の尻の肉がえぐられていることに気づき、限界の中では同属のヒトが食料になり得ることを知っていた。それでも、食料とは認識しなかった、できなかった。田村が永松と合流するとき、田村は獲物として永松に銃口を向けられていた。一歩間違えば自分が“猿”になっていたかもしれぬのだ。こういう理由もあるのかもしれない。しかしまだ原因はありそうなものである。海岸にたゆたう死体をまざまざと見たことか、教会で逢瀬を重ねていた女を射殺したことか、田村がかつて信仰していたキリスト教の教えのためか。何なのかは自分には良く分からない。

主人公は肺病のために部隊を追われたことがきっかけで独り彷徨うことになった。鬱蒼と茂る木々と先の見えない絶望の中、彼の目についた「野火」は、その下には人間がいるかもしれないという期待であり、敵対するフィリピン人、アメリカ人であったとしても、降参の意思を表すことで自分の生きる道を開く希望であった。それは戦争が終わり、精神病院に入ってもなお田村の目に映る記憶となっていた。彼が見た野火が敵軍の狼煙であったとしても、フィリピン人が芋を煮ている煙であったにせよ、彼を含めた彷徨う日本兵達にとっては心の拠り所であったのだろう。

#26 『ドン・ジュアン』感想

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モリエール『ドン・ジュアン』 岩波文庫

今回は17世紀フランスの劇作家、俳優であるモリエールの「ドン・ジュアン」を読みました。ドン・ジュアンは今回の戯曲の主人公である放蕩な貴族の名前であり、その従者スガナレルを連れて妻エルヴィールから逃げ出す所から始まります。エルヴィールから逃げ出すと言っても恐妻なのではなく、単に飽きたからという理由です。逃げる道中、二人は田舎には入りますが、やはりそこでも二人の娘と関係を持とうとします。ドン・ジュアンは途中、「結婚するまでが自分の仕事、私の心を留めておくのは女の仕事」という一見深いことを言っていますがよく考えてみれば微塵も深くないし、ただの酷い奴だと分かる。何なんだろうかこの男は。しかし読んでいて全くモテない自分からしても嫌味が無い。寧ろ応援すらしたくなる。彼は父親のドン・ルイからもその性格故に嫌われているがやはり男心が応援したくなるのは彼に勇敢さが備わっているからでしょうか。劇中、エルヴィールを誑かしたことでドン・ジュアンを殺さんとするエルヴィールの兄弟、ドン・カルロスに出会うも、彼が追剝ぎに襲われていたときには助太刀をして追剝ぎを撃退した。この作品が最後まで軽快に、愉快に終わることができているのはこういった理由からなのか。

自分は戯曲を読むのは初めてですが、シェイクスピアの「ハムレット」を読んだ父が戯曲を書いた単行本のことを全く面白くないと言っていたのを思い出しました。自分は普通に楽しめましたけどね。「ハムレット」を読んだことはないがその作品が父に合わなかっただけなのではないのか。この作品の中で面白いのは幽霊や石像が役として登場するということですかね。しかし"アブノーマルな蹲踞の姿勢の男"が出てくる小説もある位だから石像程度屁でもないかな。本当軽快で良かった。小学生並みの感想しか持たないがそういうこともあるでしょう。

ここでブログを終わる、ということは辣油魂が許さないのでもう少し書きましょう。完全に自分のせいですがこの作品に大した感想を抱いていないので作品の背景などを調べました。ドン・ジュアンというのは元々スペインの伝説で、これがイタリアに伝わってからコミカルな要素が加えられて宗教色が薄まったらしいですね。そういえばモリエールって「病は気から」の作者でもあるんですね。今度読んでみたいなぁ。

#25 『セクシィ・ギャルの大研究』感想

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上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』 岩波現代文庫

本当にお久しぶりです。自分がブログを更新していなかったのに特に意味はありませんが。正月、収入が少し増えるのを利用して買い出しに行ってきましたよ、全く。何て愉しいんだ。色々見つけて買うことができましたよ。念願の澁澤龍彦「少女コレクション序説」や「エロティシズム」、久米邦武の「米欧回覧実記」もあと一冊で全て揃いますしね。まあ今回は「風を受けて先頭を走るフェミニズムの旗手」として有名な東京大学名誉教授の社会学者、上野千鶴子さんの著書です。私はこの本の他にも何冊か目を付けているものがあるのですが、どれも面白そうなものばかりなので楽しみです。ジュルリ。自分は高校時代運動部でもないのに学校の設備を使って筋トレする迷惑な奴だったので物理的にマッチョになろうとしていたわけです。今でも毎日腹筋背筋腕立てを50回ずつは欠かしませんよ。なのでマッチョイズムの対極、フェミニズムについても勉強しようと思い今回読みました。フェミニズムというものがどんなものなのか、自分にはまだまだ全く分かりませんが、取り敢えずこの本は最後まで飽きませんでした(いつもなら大体30ページくらいで嫌になってくる)。上野さんがこの本をどう読んで欲しいか、というものに私の様に声を出して笑いながら「考えすぎでしょう」と読むのは該当しないと思いますが、ともかく面白かった。主に広告に見られるセックスアピールの分析が多いのですが、言われてみれば「さもありなん」となるものも多いが、「それは考えすぎだろう」と疑ってしまうものも多い。上野千鶴子さん自身非常に有名な方なのでどこかで学術論文調の文章を期待していた自分が居たのは否めないでしょうが、文体はスポーツ新聞のエロ欄に近い感じで、奥に奥に考え込んで行きたいのが一々邪魔されてしまうのが少し残念でした。それを差し引いても良書だった(かもしれない)。広告でよく見られる、ポケットに手を入れるスタイリッシュな女性、あのポーズはマスターベーションのメタファーであるという記述があって笑ってしまったんですが、完全にこれを思い出しました。

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サロメがベットに腰を掛けている絵なんですが、これはオナニーをしているから卑猥なのだと、澁澤龍彦先生も確か仰っていので多分上野千鶴子さんの記述は間違いではないのでしょう。もはや理論が飛躍しているのかどうかもよく分からない。

私も薄々感じていることですが、女性のジェンダー、セックス双方における社会進出が進んでいると思いますね。どういうことかというと、前時代的な家父長制の秩序下の社会が崩れかけているのではないかということです。当たり前といえば当たり前なのかもしれません。僕は激ヤバマッチョマンではないので特に危機感はありませんが。このことによってかつて性機能のしわ寄せを強制されていた生物的、ひいては社会的な女性は男性の目線に晒され、選ばれる立場(ディスプレイ)としての性質が大きい状態であったのが、最近ではその男女差が薄まりつつあるということでしょう。これは世の男性諸兄方感じているでしょう。昭和ではセクハラなんて当然という社会だったかもしれませんが最近では「セクハラ」という言葉が出来ている事実が象徴するように、女性が男性を攻撃することが可能になり、また男性が女性を尊重しなければならない時代がそこまで来ている(もう差し掛かっている)のでしょう。悪いことだとは思いませんよ僕は。これ以上何か言うと色んな方面から刺される可能性があるので今回はこの辺で、さようなら。

#24 『波止場日記 労働と思索』感想

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エリック・ホッファー『波止場日記』 みすず書房

お久しぶりです。気分が少し一段落したのでまた本を読むことができました。ここで一段落してしまうのは良くないことなんですが今はそれは関係ない。今回はあまり有名ではありませんが、エリック・ホッファーという哲学者の日記です。全く知られていませんが、ホッファーは非常に変わった経歴の持ち主。ドイツ移民としてアメリカに住んでいましたが、学者としてよく想像されるような裕福な家庭ではありませんでした。18歳で両親が死に、ロサンゼルスの貧民窟で暮らし、果てには服毒自殺を図り失敗した。なかなか想像出来ない人生ですよね。みすず書房は何に気を使ってか「社会の基底」という非常に柔らかな言葉を使っていますがね。鉱夫や農業労働者、港湾労働者を転々とする中で図書館に通い大学レベルの数学や物理学をマスターし、モンテーニュの「エセー」も三度読み最後にはそのほとんどを暗記してしまう程だったという。なんとイカした才能と人生。大学の研究機関に呼ばれたこともあったが結局サンフランシスコで港湾の肉体労働者として生きることを選んだ。この仕事は勿論日本でも存在したが、コンテナ船の誕生により衰退した。この仕事は沖仲仕(おきなかせ)と呼ばれ、肉体労働であり短期間高収入のものであったため、仕事柄荒くれ者が集まりやすいのが特徴としてある。また、多数で仕事を行うため集団化しやすく、現在の暴力団の主要な前身を形作ったと言われている。大隈重信に爆弾を投げ、足を一つ失わせた来島常喜が所属していた玄洋社も元々はこのような組織であったのではないですかね。あくまで憶測ですが。

この本、読んでいると分かりますが各所にホッファーの様々な知識が散りばめられており、注も付いている。唯の日記として読んでしまうのは非常に勿体ない。近代では既に中世近世の諸学問が古典として捉えられ、ある程度研究も進んでいると思うので、近代以降の人間が書いた文章には、やはりそれ以前の歴史的出来事や研究に関する記述が散らばっていて非常に良い。もっとも、この本が日記であり、エッセー的な要素を多分に含んでいるからであろうが。歴史に関して、彼はその読書量からかよくマクロな視点で見ることができている。時代を支配する階層は18世紀には貴族、19世紀には中産階級であったが20世紀には知識人であり、19世紀から20世紀への変化は財産から権力への変化と等しくシフトしていることなどが書かれている。しかし余りにざっくばらんに書かれているのでその部分をピンポイントで深めることはできないのが難点。日記だから仕方ないかな。あとはある人間が元居たコミュニティを離れた(すなわち既存体制が崩壊した)時に個人が誕生する、という記述もなかなか面白かったです。この日記の面白いことは何よりも、ホッファー自身の読んできた本、沖仲仕をやる中での経験、議論などが非常に多く記述されているだけでなく、やはり学者の書いたものと言っても日記なので、彼自身の、視線を低くした"普通の""ごくありふれた"感情が多く書かれているということにもあるのだろう。例えば、知り合いの沖仲仕との口論、今回パートナーになった沖仲仕は話が面白いとかそういうもの。また彼が大衆運動などを研究していたことなども挙げられるが、それは彼が沖仲仕という社会集団に寄り添った集団の一つに属していたことにもよるのだろう。遅くしてできた子供のリトル・エリックやその母(おそらく元妻)にあたるリリーへの思いも綴られており、哲学者の生活的、人間的な一面を垣間見ることができる。この、哲学者の学問的でないある側面を晒しているということにおいては、森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」が近い作品であろう。これは主人公の哲学者金井の性体験を綴ったものであったが。ホッファーは自分の息子についても色々と考えを巡らしている。話しぶりから恐らく彼は離婚しており、息子を引き取った元妻のリリーも再婚している風である。彼は自分の息子の思考力や記憶力を褒めはする。しかし彼は別居している息子から多少馬鹿にされている。ホッファーと二人だけでいる時には大人しい良い子を演じるのに、母の再婚後の家族も一緒にいる時はホッファーに対して攻撃的になる。ホッファーに敵対すると思われる仲間が居るからだ。

私は人の生き方についてとやかく言うつもりも無いし、言える立場ではない。沖仲仕という肉体労働をしながら哲学を身につけた彼は非常に稀有な才能を持っていると思う。しかし遅くにできた愛する子供からも小馬鹿にされる彼は一体どんな気持ちで日々を過ごしているのだろうか。浮世離れした人生は彼から様々な物を奪ってきただろうし、様々な物を与えてきたのだろう。与えられたものの方がはるかに大きいだろうが。