辣油の読書記録

現代を生きる若造の主に読書記録。その他の事も書くかもしれない。

映画「モテキ」考

テンション上がってうっかり万葉考みたいなタイトルを付けてしまいました、辣油です。今までは本についての内容ばかりで退屈だったでしょうが今回は私が愛して、むしろ絶対に離れることが出来ない映画、「モテキ」に関して話したいと思います。久しぶりにGE〇で借りて見たんですよ。これは漫画原作の作品で一度ドラマ化したものを主人公の藤本幸世役に森山未來を起用するという形をベースとして映画化している。「モテキ」の魅力は洗練されたJ-POPのBGM、多いくらいの適度な下ネタ、ふんだんに盛り込まれたクソサブカル要素などにあります。自分はビレヴァンとか行っちゃうような奴は往々にして小物だというイメージ、信条を持っているので絶対に行かないですが映画の主人公が行っていると魅力的に見える。下北沢のビレヴァンとかその最たるものなんではないでしょうか。つーかサブカルってなんだよ。下北沢ってどこだよ(すっとぼけ)。まあいいや。

自分はモテキの原作を知りませんが、取り敢えず主人公藤本(セカンド)童貞の周りに四人の美女が現れるという謎シチュはドラマ、映画に共通しています。きっと原作でもそうなのでしょう。映画版での美女は、みゆき(長澤まさみ)、るみ子(麻生久美子)、愛(仲里依紗)、素子(真木よう子)となっています。何故この4人の中に全くそういう関係にならない素子が入っているのかは全く謎です。まあ愛ともそういう関係にはならないので、メインの構図は藤本・みゆき・るみ子の三角関係+αといえる。藤本はみゆきが好き、るみ子→藤本が好き、みゆき・るみ子は友人となっています。ここでは映画のストーリー進展に重要な意味を成すいくつかのみを説明します。みゆきは既婚者の彼氏(金子ノブアキ)と同棲しているというクソビ〇チ。このことを知った藤本は確実に嫉妬、複雑な感情になることでしょう。そういうこともあってか、るみ子から告白された際に一夜を共にしてしまう藤本。ここに見ることが出来るのは♂特有の「ヤリたい」感情と「自分を好きになってくれる人ならいいんじゃね」感情だと思います。しかしこういうことをした後で藤本はるみ子を裏切って付き合いを断る。なんて贅沢な(セカンド)童貞ライフなんでしょうか、自分もこんな性活したいなあ。るみ子はさぞ落ち込んでるだろうと思われたのですがこいつは次のコマで何故か別の男と寝ている。この映画が公開されたとき友人と映画館に見に行きましたが、やっぱり麻生久美子は最後までビッ〇だった、という事で意見が一致しました。演者の風評被害ですね。話を戻します。藤本はライブ会場で偶然来ていたみゆき・るみ子と会う。その時この童貞は愛するみゆきに「るみ子と致した」旨を伝えてしまう。映画館でこんなにも馬鹿野郎何やってんだと歯を食い縛ったことはありません。当たり前ですがここで藤本はみゆきに嫌われてしまう。しかしこの一連の行動をしてしまった童貞の気持ちもよく考えれば見えてくる。彼の愛する人はチャラ既婚者と同棲しているのだ。許せるかこんなん、という気持ちがあるでしょう。みゆきの同棲は藤本からすれば“不貞”なわけです。そうすると自分も何か不貞を働かなければつり合いが取れない。そしてみゆきの同棲を自分が知っているように、みゆきも自分の“不貞”を知ってもらわなければならないのです。あんな一見した性欲映画の中にこんな心があるなんて誰か考えましたかね?大根仁監督の次が僕なんではないですか?だいぶ端折りますが、映画の最後で二人は抱き合う。恐らくですが、この藤本の、“みゆきの不貞の清算”がなければこの恋愛は成就しなかったのではないかと思います。二人が精神的に本当の意味でフェアになることが重要だった。めでたしめでたし、ではない。愛する人と結ばれないまま別の男と寝たまま不完全燃焼を起こして一酸化炭素出しまくってるるみ子、不倫をして離婚させられチャラ男に放置された嫁と娘、この映画には成仏していないままの魂がまだまだ多い。私が成仏させてあげたい……

#27 『野火』感想

大岡昇平『野火』 新潮文庫

今回は戦争作品の金字塔、大岡昇平の「野火」を読みました。金字塔といっても自分はいくつも戦争作品を読んだ訳ではなく、今回が最初です、アハハ。金字塔という言葉を使いたかっただけなんですね。お目汚し失礼。自分はこれがどんな作品と思ってこの本を読み始めたのかよく覚えていませんが、(何故か面白い作品だと思っていた)一言で感想を言うなら、“鮮烈”。この一言に尽きると思います。私が今まで読んだ本の中で最も心にグッと来たのは三島由紀夫金閣寺」でしょうが、この「野火」は実際に本人の経験に基づいているというのが一段とリアリティを増している。何を普通とするのかは良く分かりませんが、普通小説の文章というのは緩急があるものだと思います。しかしこの作品の全てが生死に関わるものであり、全てが“急”であると言える。正直、この作品に関する感想は何とも言い難いです。よく教科書で見る戦争とは全く異なった戦争の形が描かれている。所謂、上層部の名前ある軍人達の作戦指揮ではない、白兵戦の部分です。常に食料は底を突きそうな状態にあり、フィリピンの熱帯の中、どこに向かえば良いのかも分からず独りどこかへ往かねばならない、絶望。この孤独と絶望の中生きる目的を見出すのは奇跡と云うに近いであろう。主人公である田村は、飢えの余り自分の身体に付いた山蛭すら口にした。途中、自分と似た境遇の永松という病兵と合流する。彼は“猿”の干し肉を食っていた。銃で猿を撃ち、肉を干すのだという。田村もこの“猿”の干し肉を食べた。しかし猿というのは熱帯雨林の中迷って独りになった日本兵のことであり、彼らはこれを撃って食べていた。ここで田村のカニバリズムと永松のカニバリズムには“彼ら”とひとまとめにはできない大きな差がある。干し肉を人肉と認識しているか否かという差だ。少し端折るが、結果的に田村は最後まで人肉を意識して食すことが出来なかった、といえる。かつて田村は道の途中に転がっている日本兵の尻の肉がえぐられていることに気づき、限界の中では同属のヒトが食料になり得ることを知っていた。それでも、食料とは認識しなかった、できなかった。田村が永松と合流するとき、田村は獲物として永松に銃口を向けられていた。一歩間違えば自分が“猿”になっていたかもしれぬのだ。こういう理由もあるのかもしれない。しかしまだ原因はありそうなものである。海岸にたゆたう死体をまざまざと見たことか、教会で逢瀬を重ねていた女を射殺したことか、田村がかつて信仰していたキリスト教の教えのためか。何なのかは自分には良く分からない。

主人公は肺病のために部隊を追われたことがきっかけで独り彷徨うことになった。鬱蒼と茂る木々と先の見えない絶望の中、彼の目についた「野火」は、その下には人間がいるかもしれないという期待であり、敵対するフィリピン人、アメリカ人であったとしても、降参の意思を表すことで自分の生きる道を開く希望であった。それは戦争が終わり、精神病院に入ってもなお田村の目に映る記憶となっていた。彼が見た野火が敵軍の狼煙であったとしても、フィリピン人が芋を煮ている煙であったにせよ、彼を含めた彷徨う日本兵達にとっては心の拠り所であったのだろう。

#26 『ドン・ジュアン』感想

モリエールドン・ジュアン』 岩波文庫

今回は17世紀フランスの劇作家、俳優であるモリエールの「ドン・ジュアン」を読みました。ドン・ジュアンは今回の戯曲の主人公である放蕩な貴族の名前であり、その従者スガナレルを連れて妻エルヴィールから逃げ出す所から始まります。エルヴィールから逃げ出すと言っても恐妻なのではなく、単に飽きたからという理由です。逃げる道中、二人は田舎には入りますが、やはりそこでも二人の娘と関係を持とうとします。ドン・ジュアンは途中、「結婚するまでが自分の仕事、私の心を留めておくのは女の仕事」という一見深いことを言っていますがよく考えてみれば微塵も深くないし、ただの酷い奴だと分かる。何なんだろうかこの男は。しかし読んでいて全くモテない自分からしても嫌味が無い。寧ろ応援すらしたくなる。彼は父親のドン・ルイからもその性格故に嫌われているがやはり男心が応援したくなるのは彼に勇敢さが備わっているからでしょうか。劇中、エルヴィールを誑かしたことでドン・ジュアンを殺さんとするエルヴィールの兄弟、ドン・カルロスに出会うも、彼が追剝ぎに襲われていたときには助太刀をして追剝ぎを撃退した。この作品が最後まで軽快に、愉快に終わることができているのはこういった理由からなのか。

自分は戯曲を読むのは初めてですが、シェイクスピアの「ハムレット」を読んだ父が戯曲を書いた単行本のことを全く面白くないと言っていたのを思い出しました。自分は普通に楽しめましたけどね。「ハムレット」を読んだことはないがその作品が父に合わなかっただけなのではないのか。この作品の中で面白いのは幽霊や石像が役として登場するということですかね。しかし"アブノーマルな蹲踞の姿勢の男"が出てくる小説もある位だから石像程度屁でもないかな。本当軽快で良かった。小学生並みの感想しか持たないがそういうこともあるでしょう。

ここでブログを終わる、ということは辣油魂が許さないのでもう少し書きましょう。完全に自分のせいですがこの作品に大した感想を抱いていないので作品の背景などを調べました。ドン・ジュアンというのは元々スペインの伝説で、これがイタリアに伝わってからコミカルな要素が加えられて宗教色が薄まったらしいですね。そういえばモリエールって「病は気から」の作者でもあるんですね。今度読んでみたいなぁ。

#25 『セクシィ・ギャルの大研究』感想

上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』 岩波現代文庫

本当にお久しぶりです。自分がブログを更新していなかったのに特に意味はありませんが。正月、収入が少し増えるのを利用して買い出しに行ってきましたよ、全く。何て愉しいんだ。色々見つけて買うことができましたよ。念願の澁澤龍彦「少女コレクション序説」や「エロティシズム」、久米邦武の「米欧回覧実記」もあと一冊で全て揃いますしね。まあ今回は「風を受けて先頭を走るフェミニズムの旗手」として有名な東京大学名誉教授の社会学者、上野千鶴子さんの著書です。私はこの本の他にも何冊か目を付けているものがあるのですが、どれも面白そうなものばかりなので楽しみです。ジュルリ。自分は高校時代運動部でもないのに学校の設備を使って筋トレする迷惑な奴だったので物理的にマッチョになろうとしていたわけです。今でも毎日腹筋背筋腕立てを50回ずつは欠かしませんよ。なのでマッチョイズムの対極、フェミニズムについても勉強しようと思い今回読みました。フェミニズムというものがどんなものなのか、自分にはまだまだ全く分かりませんが、取り敢えずこの本は最後まで飽きませんでした(いつもなら大体30ページくらいで嫌になってくる)。上野さんがこの本をどう読んで欲しいか、というものに私の様に声を出して笑いながら「考えすぎでしょう」と読むのは該当しないと思いますが、ともかく面白かった。主に広告に見られるセックスアピールの分析が多いのですが、言われてみれば「さもありなん」となるものも多いが、「それは考えすぎだろう」と疑ってしまうものも多い。上野千鶴子さん自身非常に有名な方なのでどこかで学術論文調の文章を期待していた自分が居たのは否めないでしょうが、文体はスポーツ新聞のエロ欄に近い感じで、奥に奥に考え込んで行きたいのが一々邪魔されてしまうのが少し残念でした。それを差し引いても良書だった(かもしれない)。広告でよく見られる、ポケットに手を入れるスタイリッシュな女性、あのポーズはマスターベーションのメタファーであるという記述があって笑ってしまったんですが、完全にこれを思い出しました。

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サロメがベットに腰を掛けている絵なんですが、これはオナニーをしているから卑猥なのだと、澁澤龍彦先生も確か仰っていので多分上野千鶴子さんの記述は間違いではないのでしょう。もはや理論が飛躍しているのかどうかもよく分からない。

私も薄々感じていることですが、女性のジェンダー、セックス双方における社会進出が進んでいると思いますね。どういうことかというと、前時代的な家父長制の秩序下の社会が崩れかけているのではないかということです。当たり前といえば当たり前なのかもしれません。僕は激ヤバマッチョマンではないので特に危機感はありませんが。このことによってかつて性機能のしわ寄せを強制されていた生物的、ひいては社会的な女性は男性の目線に晒され、選ばれる立場(ディスプレイ)としての性質が大きい状態であったのが、最近ではその男女差が薄まりつつあるということでしょう。これは世の男性諸兄方感じているでしょう。昭和ではセクハラなんて当然という社会だったかもしれませんが最近では「セクハラ」という言葉が出来ている事実が象徴するように、女性が男性を攻撃することが可能になり、また男性が女性を尊重しなければならない時代がそこまで来ている(もう差し掛かっている)のでしょう。悪いことだとは思いませんよ僕は。これ以上何か言うと色んな方面から刺される可能性があるので今回はこの辺で、さようなら。

#24 『波止場日記 労働と思索』感想

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エリック・ホッファー『波止場日記』 みすず書房

お久しぶりです。気分が少し一段落したのでまた本を読むことができました。ここで一段落してしまうのは良くないことなんですが今はそれは関係ない。今回はあまり有名ではありませんが、エリック・ホッファーという哲学者の日記です。全く知られていませんが、ホッファーは非常に変わった経歴の持ち主。ドイツ移民としてアメリカに住んでいましたが、学者としてよく想像されるような裕福な家庭ではありませんでした。18歳で両親が死に、ロサンゼルスの貧民窟で暮らし、果てには服毒自殺を図り失敗した。なかなか想像出来ない人生ですよね。みすず書房は何に気を使ってか「社会の基底」という非常に柔らかな言葉を使っていますがね。鉱夫や農業労働者、港湾労働者を転々とする中で図書館に通い大学レベルの数学や物理学をマスターし、モンテーニュの「エセー」も三度読み最後にはそのほとんどを暗記してしまう程だったという。なんとイカした才能と人生。大学の研究機関に呼ばれたこともあったが結局サンフランシスコで港湾の肉体労働者として生きることを選んだ。この仕事は勿論日本でも存在したが、コンテナ船の誕生により衰退した。この仕事は沖仲仕(おきなかせ)と呼ばれ、肉体労働であり短期間高収入のものであったため、仕事柄荒くれ者が集まりやすいのが特徴としてある。また、多数で仕事を行うため集団化しやすく、現在の暴力団の主要な前身を形作ったと言われている。大隈重信に爆弾を投げ、足を一つ失わせた来島常喜が所属していた玄洋社も元々はこのような組織であったのではないですかね。あくまで憶測ですが。

この本、読んでいると分かりますが各所にホッファーの様々な知識が散りばめられており、注も付いている。唯の日記として読んでしまうのは非常に勿体ない。近代では既に中世近世の諸学問が古典として捉えられ、ある程度研究も進んでいると思うので、近代以降の人間が書いた文章には、やはりそれ以前の歴史的出来事や研究に関する記述が散らばっていて非常に良い。もっとも、この本が日記であり、エッセー的な要素を多分に含んでいるからであろうが。歴史に関して、彼はその読書量からかよくマクロな視点で見ることができている。時代を支配する階層は18世紀には貴族、19世紀には中産階級であったが20世紀には知識人であり、19世紀から20世紀への変化は財産から権力への変化と等しくシフトしていることなどが書かれている。しかし余りにざっくばらんに書かれているのでその部分をピンポイントで深めることはできないのが難点。日記だから仕方ないかな。あとはある人間が元居たコミュニティを離れた(すなわち既存体制が崩壊した)時に個人が誕生する、という記述もなかなか面白かったです。この日記の面白いことは何よりも、ホッファー自身の読んできた本、沖仲仕をやる中での経験、議論などが非常に多く記述されているだけでなく、やはり学者の書いたものと言っても日記なので、彼自身の、視線を低くした"普通の""ごくありふれた"感情が多く書かれているということにもあるのだろう。例えば、知り合いの沖仲仕との口論、今回パートナーになった沖仲仕は話が面白いとかそういうもの。また彼が大衆運動などを研究していたことなども挙げられるが、それは彼が沖仲仕という社会集団に寄り添った集団の一つに属していたことにもよるのだろう。遅くしてできた子供のリトル・エリックやその母(おそらく元妻)にあたるリリーへの思いも綴られており、哲学者の生活的、人間的な一面を垣間見ることができる。この、哲学者の学問的でないある側面を晒しているということにおいては、森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」が近い作品であろう。これは主人公の哲学者金井の性体験を綴ったものであったが。ホッファーは自分の息子についても色々と考えを巡らしている。話しぶりから恐らく彼は離婚しており、息子を引き取った元妻のリリーも再婚している風である。彼は自分の息子の思考力や記憶力を褒めはする。しかし彼は別居している息子から多少馬鹿にされている。ホッファーと二人だけでいる時には大人しい良い子を演じるのに、母の再婚後の家族も一緒にいる時はホッファーに対して攻撃的になる。ホッファーに敵対すると思われる仲間が居るからだ。

私は人の生き方についてとやかく言うつもりも無いし、言える立場ではない。沖仲仕という肉体労働をしながら哲学を身につけた彼は非常に稀有な才能を持っていると思う。しかし遅くにできた愛する子供からも小馬鹿にされる彼は一体どんな気持ちで日々を過ごしているのだろうか。浮世離れした人生は彼から様々な物を奪ってきただろうし、様々な物を与えてきたのだろう。与えられたものの方がはるかに大きいだろうが。

#23 『曽根崎心中』感想

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近松門左衛門曽根崎心中・冥途の飛脚』 岩波文庫

今回は珍しく古典で短いものをと思って曽根崎心中を読みました。自分は古典というと漢文学や鎌倉以前のものしか読まないので、文字が庶民のものとなった後、江戸時代の文学は殆ど読んだことがありませんでした。なので良い機会でしたね。自分は徒然草が好きで中学時代よく読んでいたのですが、あの本は凄い貴重だと思うんですよ。自分が教わっていた先生の1人が吉田兼好の、下層農民を見下す態度が気にくわないと言って徒然草を嫌っていましたが、私はそこにはあまり注目しない。当時まだ上流階級のものであった文字を使いながら山奥で隠遁生活を送った人間はなかなか珍しいでしょう。その為他の文学では宮中行事などにしか触れられていないのに徒然草では支配ピラミッド末端の生活の有様まで事細かに書いてありますからね。本当に平安・鎌倉時代の庶民生活がどのようなものであったのかがよく分かる作品だと思います。徒然草についても高校時代レポートを書いたのを以前ブログに挙げたのでリンク貼っときますね(他記事宣伝2回目)。

http://goshinsangyou.hatenablog.com/entry/2016/09/14/123736

ところでこの曽根崎心中はある友人のお陰でとても安く手に入れることができたんですよ。ニヤニヤしてしまう。どうでもいいがそろそろ本題。

この物語(浄瑠璃)の大まかなストーリーは 大阪の醤油屋平野屋九右衛門の手代である徳兵衛が天満屋という茶屋の遊女お初と結ばれんとする為に大阪、曽根崎の森で心中をするものです。まず最初の読み出しからもう凄い。浄瑠璃なので竹本義太夫が話し手になるのだろうが、ずっと7.5の音が続く。黙読は絶対に勿体無いので音読しなければ気が済まなくなる。リズム感があってスラスラ読めてしまう。なかでも道行文がかなり有名であるので全て載せておく。

此の世の名残。夜も名残。死にに行く身を譬ふれば。仇しが原の道の霜。一足ずつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて。残る一つが今生の。鐘の響きの聞きをさめ。寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは草も木も。空も名残と見上ぐれば、雲心なき水の面。北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋をかささぎの橋と契りていつ迄も。我とそなたは夫婦星。必ずさうとすがりより。二人が中に降る涙。河の水かさも増るべし。

何というか、もし完全な意味が分からなくても琴線に触れるものがありませんか。全体的に七夕の織姫と彦星に掛けられていますね。「我とそなたは夫婦星」ってのが特にグッときました。初めて読みましたが近松門左衛門は天才なのかなあと感じさせる。漢詩でもソネットでも和歌でもそうですけど、人の心を打つにはやはり韻というのは重要なんでしょうね。ただ正論を長々と語っても聞くのは面倒なだけですが、これに韻が加わることで本当に良いものになりますよね。自分は高校の時、何故か漢詩の心を得たいと思って幾つか作って先生に提出して添削をお願いしたことがありました。全て上手くはいかなかったんですがね。敗因は「有名な詩を読む」ことが足らなかったことでしょう。もっと白氏文集とか唐名詩選とか読んでおくんだった。しかし詩集って読むの辛いですよね。英語のポエムはそこそこ楽しめたんですが漢詩はどうもココロが重くなる。多分中国の音で読めないというだけで楽しさ半減してるんですよね。分かってるならやれよ、って感じですが。英詩の話になったので少し。先日Robert Louis StevensonのA child's garden of versesという詩集を読んだのですが、英語の韻文もやはり心に響く。言語も私の母語と違うし、大陸も違うのにですよ。特に良かったのはLooking forwardという章でした。一番最初に知ったからですかね。これです。

When I am grown to man's estate
I shall be very proud and great,
And tell the other girls and boys
Not to meddle with my toys.

大体の意味はこんな感じですかね。

もし僕が大人になったら

とても誇り高くて立派になるんだ

そしたら女の子や男の子達にこう言ってやるんだ

僕のおもちゃは触らせない、ってね

ちょっとコミカルですが幼い時間がよく分かる作品ですよね。大人になったらとうに玩具に興味はなくなっているだろうに、やはり他の子には触らせたくない男の子の心。可愛らしいですね。まあまだ半分ほどしか読んでいないので来年一気読みしたいと思います。最近詩とか韻文に触れる機会が多くなって思ったんですが、高校までの学校教育だと韻の美しさを強調して愉しむような授業がなかなか無いですよね。"鑑賞"とか言ってもしょうもないものが大半ですしね。カリキュラムの関係と言ってしまえばそうなんですが、文学にはもっと面白い世界がありそうなのに、その世界をすらなかなか垣間見させない。自分は教壇に立ったことがないので全く分かりませんが、やはり人に何かを教えるというのは簡単なことではないのでしょう。自分がある要素を持っていたとしても、それすら生徒に伝えるのは難しいのでしょうね。雑談が殆どでしたがそろそろこの辺で。それでは。

#22 『ダフニスとクロエー』感想

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ロンゴス『ダフニスとクロエー』 岩波文庫

今回はロンゴスの「ダフニスとクロエー」を読みました。題名見りゃ分かることですね、すいません。今回この本を読んだのは#18で扱った三島由紀夫の「潮騒」がこの作品のオマージュであるというのをあとがきで知ったからです。取り敢えずリンク貼っときますね。

http://goshinsangyou.hatenablog.com/entry/2016/09/02/185748

この物語はダフニスとクロエという若い山羊飼いと羊飼いとの恋愛を描いた2.3世紀の作品。ダフニスとクロエは互いに付き合いを続ける中で初めて"恋"というものを知り、お互いを求めるあまり苦しむようになるが、 フィレータースという老人がダフニスに恋の存在を教えたことでまた2人の恋愛は難題を退けながら一歩ずつ歩みを進める。しかしセックスには至らない。ダフニスはABの先にCがあることに本能で気付いているのだが何をすればいいのかまでは分からない。2人の間にセックスを持ち込んだのはリュカイニオンという淫蕩な人妻であった。リュカイニオンが深い森の中でダフニスにABCのCがどの様なものなのかを教えた。クロエーは処女であるはずだから流れた血は森にある泉で洗えば良いことなども教えた。物語全てが何という官能。椅子に座って読んでいるだけなのにのぼせてしまう。良い感じ。ギリシャ語で読む能力が無いのが恨めしい。まあこの後も美少年ダフニスはグナトーンという男色家に襲われかけたりするのだが結局、このダフニスとクロエーが住んでいた一帯の大領主ディオニューソファネースがこの村にやって来たとき、ダフニスがディオニューソファネースの実子であることが分かり、その後無事婚儀を執り行い、2人は結ばれたというところで話が終わる。言い方よくないですけどクロエーが処女を喪失する瞬間で物語が終わるんですよね。ちょっと面白い。

まあしかし読み進める程「潮騒」が如何にこの作品に似せられているかよく分かりますね。潮騒もこの作品も、共に海に近いというのは三島がダフニスとクロエーに似せたからであろうが。私は"海"は三島の中にある要素の一つなのではないかと思う。海はよく眩しく光る。三島と親交のあった石原慎太郎の作品「太陽の季節」や彼の趣味、ヨットなどにも"海"は現れている。石原慎太郎は「肉体派」という言葉を使っていたが当に、という感じを受ける。潮騒の作品そのものを肉体派と位置付けるのは性急かもしれないが肉体派的要素は散見されるのではないか。そもそも肉体派的要素を持った三島の選択の中に肉体派的要素が勿論含まれていたのだ。そのため、余りにも若々しい"海"をその作品、彼自身に惹きつけたのではなかろうか。幾ら何かを真似しても自分の性質からは逃げられない。潮騒の記事でも触れていますが、潮騒は三島作品の中でも異色、まだ読み終えてないものも多いので一概には言えないが本当に異色。激しい執念や情熱、憎悪が余り感じられない。あるのは男女の生易しい恋愛感情、三島が憧れ、それが失われている為に焦り、心に大きな影響、傷も与え、結局実現することの無かった異性間の恋。三島は何か思うところがあったのではないか。三島が「潮騒」を仕上げるとき、本人にその扱われている題材が欠けていたことに関して、本人は何を思ったのだろうか。